■S:今日の聖書の言葉
士師記16章17節

★それで、ついにサムソンは、自分の心をみな彼女に明かして言った。「私の頭には、かみそりが当てられたことがない。私は母の胎内にいるときから、神へのナジル人だからだ。もし私の髪の毛がそり落とされたら、私の力は私から去り、私は弱くなり、普通の人のようになろう。

■O:今日のコラム
ナジル人という言葉には、「聖別された者」「ささげられた者」という意味があります。

ナジル人の生き方とは、自ら主のものとして聖別されることを選び取る生き方のことで、今日の私たちも持つべき心、歩みでもあります。

民数記6章にナジル人の誓願に関して詳しく書かれていますが、ナジル人の誓願とは、個人的なものであり、神の奉仕のために、からだと心の両方を聖別することです。そして、それは、強いられたり、要求されたり、義務感で行うのではなく、神の霊に促されて、自発的に、主のものとして聖別されることを願い行う特別な誓い・嘆願でした。

私たちは実際的に、禁酒をする、ぶどうを口にしない、髪を切らない…などのナジル人の誓願の決まりを守り行う必要はありませんが、ナジル人の誓願の願いと心をもって、ナジル人のように、自ら聖別されることを選び求めて歩むこと、神に対するミニストリーのために自分のからだ・心を聖く保つ歩みをすること、主のものとして聖別された者の歩みをすることは、とても大切です。

士師記を読むと、サムソンもナジル人であり、ナジル人としての神との関係・誓いによって、神の力がサムソンに注がれていました。そして、髪にかみそりを当てていないことは、聖別・献身の歩みのしるしであり、ナジル人として歩み、神の力がともにあることのしるしでした。

しかし、サムソンはデリラにその力のもとを明かして、髪の毛がそり落とされることによって、その誓いを破ってしまったのです。

私たちも日々の歩みの中で、様々な弱さ、葛藤、失敗、誘惑を経験します。しかし大切なことは、それでも、その度に、主に拠り頼み、主に立ち返り、聖さの中を歩むことを願い求め続けることです。

そして、そのように私たちが聖別されることを願い求めて聖さの中を歩み続けるには、主ご自身を追い求めることが必要です。

サムソンは主の選びによって、母の胎内にいるときから神へのナジル人でしたが、主ご自身を求めることをしなかったので、ナジル人の誓いを破ってしまうこととなり、神からくる力を失っただけでなく、神が自分から去られたことにも気づきませんでした。

私たちもまた、生まれる前から選び分けられ、恵みによって召されている者ですが、「聖別された者」として歩み続けるには、主ご自身を求める心を持って、日々自ら進んで聖別されることを求め続けること、日々自ら進んで聖さを選び続けることが大切です。そして、恐れや義務感からでもなく、強いられてでもなく、主との関係の中で、自発的に、自分の心とからだを神への奉仕のために、聖さを保つ歩みをすることを願い続けることが大切です。

私たちが、今日、ナジル人の願いを持って、主に聖別された者とされ、聖別された歩みをすることができますように。そのために、主ご自身を求める心が、今日、新たにされ、回復されていきますように。

■A:考えてみよう
自ら進んで、主のものとして聖別されることを願い求め続ける神へのナジル人として歩むことができますように、主の助け・主の力を求めて祈りましょう。

聖さを選び取り続けるために、主との愛の関係が回復され、ただ主ご自身を求める心が回復されるように求めて祈りましょう。

また、キリスト者としての歩み、主に献身する者としての歩みにおいて、自発的ではなかったこと、または主ご自身を求めて行っていなかったことがないか、御霊に示していただきましょう。

聖別された者として歩み続けることができますように。主ご自身を求め続けることができますように。主の力に拠り頼み続けることができますように。

今日私たちの上に主の霊が激しく下りますように。そして日々主とともに歩み続けることができますように。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 ありさ 】

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