■S:今日の聖書の言葉
士師記15章14~17節
★サムソンがレヒに来たとき、ペリシテ人は大声をあげて彼に近づいた。すると、主の霊が激しく彼の上に下り、彼の腕にかかっていた綱は火のついた亜麻糸のようになって、そのなわめが手から解け落ちた。
サムソンは、生新しいろばのあご骨を見つけ、手を差し伸べて、それを取り、それで千人を打ち殺した。
そして、サムソンは言った。「ろばのあご骨で、山と積み上げた。ろばのあご骨で、千人を打ち殺した。」
こう言い終わったとき、彼はそのあご骨を投げ捨てた。彼はその場所を、ラマテ・レヒと名づけた。
■O:今日のコラム
御霊の注ぎを受けてクリスチャンは初めて御言葉に生きる自由を得ます。私たちを捕らえていた縄目は溶け落ち、真理の御霊による自由が与えられます。私たちにとってこの体験は一度限りのものではありません。日々、私たちには御霊の満たしが必要です。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(マタイ5:3)
飢え渇いて御霊によって祈る時に私たちに真理に生きる力が与えられ続けていくのです。毎日異言を用いて祈りましょう!また毎日御言葉を飢え渇いて朗読しましょう!
真理の御言葉、真理の御霊により「真理はあなたがたを自由にするのです」という御言葉の成就を受け取るのです。
そうして私たちは、主に見出され、主の用いやすい、生新しいロバのあご骨となっていくのです。生新しいという語(へ)タリーは「潤っていて新しい」というニュアンスの語なのです。御言葉と御霊に満たされて真理の水に骨の髄まで潤っている者となっていきましょう!
そしてあごは言葉を語る部分です。口の言葉によって勝利を得ることが戦いの初めなのです。実はこれは霊的な戦いです。なぜならイエス様は「わたしが語る言葉はいのちであり、霊です」と語られたからです。
ダビデとゴリヤテの戦いは、ゴリヤテの挑発の言葉に対して、ダビデが主の御名による勝利宣言によって既に霊的な領域によって神の陣営の勝利に傾いていたのです。
イエス様も荒野でサタンの試みにあった時に、御言葉の宣言によって悪を打ち破ったのです。
私たちも暗闇の力に信仰の告白で勝利をもたらすことができます。まず霊的な領域での勝利が必要なのです。
その後に実際的な領域での戦いがやってきます。それもあごで戦うのです。あごは恥を表す器官でもあります。それは頬に属していますが、聖書で頬は恥に関わる器官だからです。
右の頬を打たれたら左の頬を出せ、とありますが、右の頬を打たれるのは相手が右手の甲(手のひらじゃない方です)で相手のほっぺたを叩く行為です。これは相手の体よりプライドにダメージを与える方法です。また聖書では、あごのひげを剃られることを辱めの表現としています。
しかし辱めを物ともしない愛によって私たちは勝利を得るのです。これは十字架を成し遂げたイエス様の力強い愛の心です。
その時に私たちは、サムソンがあご骨を投げ捨てたように、私たちは見捨てられたかのような感覚を体験をするでしょう。しかしイエス様も十字架で御父から見捨てられたかのように感じる体験をされたのです。しかしそれはキリストの苦しみにあずかることなのです。主は親密に愛する者には、楽しみだけではなく苦しみをも分かち合われるのです。多くを共感し理解し合えるために。
私たちは続く16章でサムソンが2本の柱を堅く握って敵に勝利を得たように、神を愛し、隣人を愛する二本の柱を握り、辱めを物ともせずに御心を成し遂げ、圧倒的な勝利を得ることができるのです。
■A:考えてみよう
この口に悪い言葉を出させてはなりません。そのためには異言で祈り、この舌を主に委ねることができる恵みにあずかることが重要です。そして御言葉を朗読し蓄えるのです。
そして悪や闇を見つける度に信仰の告白をもって霊的な領域に勝利を得ましょう。この口の言葉が御言葉の告白、信仰の告白となっていきますように。
また御霊の力によって、辱めをものともしない愛に生きるようになることを求めましょう。主は、私たちのあごを用いて勝利をもたらしてくださるのです。
■P:祈り
勝利の主を褒め称えます。この口の言葉が恵みの言葉、御言葉、信仰の言葉となりますように。闇を打ち破り、光をこの地にもたらす言葉となりますように。
また聖霊様が神の愛を悟らせてくださって、辱めをものともしない愛に生きることができるようにしてくださいますように。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 まじまこ 】
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