■S:今日の聖書の言葉
士師記13章5節

★見よ。あなたはみごもっていて、男の子を産もうとしている。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから神へのナジル人であるからだ。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。

■O:今日のコラム
士師記13章からサムソンについて書かれていますが、彼はナジル人として生まれ育ちました。ナジル人とは「聖別された者、捧げられた者」という意味がありますが、今日はそのナジル人に注目して見ていきたいと思います。

ナジル人の特徴は大きく4つあります。

(1)男でも女でも誓いを立てることで、ナジル人として歩むことができる。

「『イスラエル人に告げて言え。男または女が主のものとして身を聖別するため特別な誓いをして、ナジル人の誓願を立てる場合、」(民数記6:2)

ナジル人はレビ人のように選ばれた者ではなく、誰でも自ら身を聖別するために主の前に誓うときになれる者でした。ですから私たちも断食の期間を持つように、一定期間を選り分けて特別に主に捧げることは良いことです。またイエス様を信じる者はその生涯を主とともに歩む者ですから、自分自身を主に捧げ、真理によって聖め分けられた者として歩むことを主に願うことでナジル人として歩むことができます。

(2)ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。またぶどうから生じるものを食べてはならない。

「ぶどう酒や強い酒を断たなければならない。ぶどう酒の酢や強い酒の酢を飲んではならない。ぶどう汁をいっさい飲んではならない。ぶどうの実の生のものも干したものも食べてはならない。彼のナジル人としての聖別の期間には、ぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならない。」(民数記6:3~4)

ぶどう酒は祝福、繁栄また命をあらわすものでもありますが、ここでは反対に世や地上に属する肉的なものとして書かれていて、それを断たなければなりませんでした。悪いぶどう酒については黙示録で次のように書かれています。

「地の王たちは、この女と不品行を行い、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。』」(黙示録17:2)

また強い酒という言葉には、「興奮させる、夢中にさせる」という意味があります。ですから強い酒は私たちの肉を興奮させるものです。

ですから私たちクリスチャンが実際的に飲酒をして泥酔することを避けることは大切なことであり、また霊的な歩みにおいてもこの世や人に属するもの、自分の肉を興奮されるものを断つことは重要な選択です。

申命記ではぶどう酒や強い酒を避けることで、真の神が誰であるかを知ることになると書かれています。

「あなたがたはパンも食べず、また、ぶどう酒も強い酒も飲まなかった。それは、『わたしが、あなたがたの神、主である』と、あなたがたが知るためであった。」(申命記29:6)

この御言葉はいよいよ約束の地に入っていくイスラエルの民に向けてモーセが語った言葉です。モーセは荒野での歩みを忘れないようにと人々に言います。その荒野は人の罪の性質や弱さが現れ、それら肉に属するものが断ち切られる場所であり、またそこを通ることで神の御言葉以外のだけで生きることを学びます。そのように、イスラエルの人々の歩みにおいてもぶどう酒を飲まないことで、ただ神が神であり主であることを学んだことを覚えます。

私たちもこの世や肉が与えるものを断ち切っていって、主が主であることを聖霊様にあって悟らせていただこうではありませんか。

(3)頭にかみそりを当ててはならない。

「彼がナジル人としての聖別の誓願を立てている間、頭にかみそりを当ててはならない。主のものとして身を聖別している期間が満ちるまで、彼は聖なるものであって、頭の髪の毛をのばしておかなければならない。」(民数記6:5)

髪の毛は女の頭における権威のしるし、また光栄だとパウロは言っています。

「ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです。…女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。」(1コリント11:10、15)

つまり髪の毛は権威に対する従順をあらわしているのではないでしょうか。キリストの花嫁である私たちにとって花婿なるイエス様への従順は私たちが身につけるべきかぶり物であり光栄です。

キリストへの従順というかぶり物を私たちのかぶり物としていこうではありませんか。

(4)死体に近づいてはならない。

「主のものとして身を聖別している間は、死体に近づいてはならない。」(民数記6:6)

死体に触れると汚れるというのがトーラーにおける教えですが、なぜ死体に近づいてはいけないかということを考えたときに、死体には命がないからではないかと思いました。

命がないことはつまり死んでいる状態です。

そして死は罪からくる報酬になります。ですから私たちが罪を避け、命なるイエスキリストに近づくことが死体に近づかないことにある意味ではないでしょうか。

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)

ナジルという言葉の意味に「聖別」があるように、主にあって罪や汚れを捨て、主が与えてくださる聖さを受け取っていこうではありませんか。

■A:考えてみよう
・ナジル人はどのような者でしょうか。
・ナジル人の歩みはどのようであるべきでしょうか。
・私たちもナジル人としてどのように歩むべきでしょうか。

ナジル人としての歩みは主への愛のあらわれであり、主が聖であるように自分自身も聖となりたいという心からの献身であると思います。

私たちも困難な時代にありますが、自分自身を主に捧げるナジル人として歩んでいこうでありませんか。

イエス様が弟子たちを真理によって聖め別ってくださいと願い祈ったように、私たちも私たち自身を今日も真理の御言葉によって聖め別ってくださいと主に求めようではありませんか。

■P:祈り
愛するイエス様、今日もあなたの愛と恵みが十分に注がれていることを感謝します。
今日の箇所をとおしてナジル人について学びました。イエス様、あなたが聖であるように私も聖でありたいと願います。主よどうかあなたにあって、あなたに献身するナジル人として歩めるように助け導いてください。
ナジル人が誓願の期間を終わってその髪の毛を切り祭壇であなたに捧げたように、私もあなたの前に、この人生におけるあなたへの従順という光栄であるかぶり物を捧げることができますように。

愛する主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 たくみ 】

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