■S:今日の聖書の言葉
ヨハネによる福音書3章9節

★イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。

■O:今日のコラム
パリサイ人のひとり、ニコデモは、夜、イエス様を訪ねました。なぜ夜だったのか? そうせざるを得なかったからです。大多数のパリサイ人はイエス様を憎んでいました。ですから、もしイエス様を訪ねたことが知れたら、ニコデモは厳しい弾圧を受けたことでしょう。

事実、のちにイエス様をわずかばかり弁護しただけで、ひどい非難を受けています。(ヨハネ7:50〜52) 
そうまでしてニコデモはイエス様を訪ねました。それはイエス様が神から来られた方であると確信したからです。(ヨハネ3:2) 
にもかかわらず、イエス様との問答の末、バッサリと言われてしまいます。

「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。」(ヨハネ3:10b 口語訳)

一体、ニコデモの何が問題だったのでしょうか?

(1)ニコデモを軽んじてはならない
それを考える前に、まず誤解してはならないことがあります。ニコデモを軽く考えてはならない、ということです。パリサイ人とは厳格に律法を守ろうとする人々であり、祭司のように世襲ではなく、自らの意思で、聖さを求めて、この世のさまざまな汚れからペリシュ(分離された)人々です。

残念ながら、イエス様が厳しく非難なさったように、当時は(パリサイ派が生まれた当初の)純粋さはすっかり失われ、形骸化して、いわば特権階級となっていました。それでもニコデモは老年に至るまで神の国を待ち望んで、律法を守り続けてきたのです。

実のところ、イエス様もニコデモを高く評価していたと思われます。イエス様とニコデモの対話は、いきなり始まります。「どうすれば神の国に入れるか」について、イエス様のほうから切り出されました。(ヨハネ3:3) 
それは、ニコデモが何を求めて訪ねてきたかを、イエス様が知っておられたからでありましょう。つまりニコデモが質問する前に、イエス様のほうからお答えになったのです。

どんなレッスンでも、初心者には一から教えます。しかし上級者にはそんな教え方はしません。いきなり高いレベルから始めるでしょう。イエス様も、ニコデモが長い間、神の国を求めてきたことを知っておられたので、単刀直入に、核心から入られたのです。そればかりかイエス様は、より高いレベルまで、ニコデモに教えようと準備されていたようです。

「わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。」(ヨハネ3:12)

(ニコデモが理解できなかった)「新生」とは霊的な(目に見えない)事柄ですが、地上で起こることです。ですが、イエス様はさらに天上のことまでニコデモに教えるつもりでした。いかにイエス様がニコデモを高く評価しておられたかが分かります。

そもそもイエス様は、群衆はおろか、十二弟子に対してでさえ、ニコデモとの対話のように教えたでしょうか? イエス様は、ほとんど譬えでお話しになりました。人々の聞く力に応じて語られたからです。(マルコ4:33) 譬えで語ることをやめたのは十字架にかかる直前になってからです。

「弟子たちは言った、『ああ、今あなたははっきりとお話しになって、何一つたとえ話はなさいません。」(ヨハネ16:29)

さて、これほどの人物であったニコデモが、どうしてイエス様の言葉を理解できなかったのでしょうか?

(2)ニコデモが躓いた理由
イエス様は「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われました。これに対してニコデモは「老年になって再び生まれることができますか?もう一度、母の胎に入って生まれることなどできませんよ」と答えます。このニコデモの反論から2つのことが分かります。ひとつは、彼が「老い」の現実に直面していた、ということです。老いる、ということは大変なことです。昨日までできていたことが、今日はできなくなる、、、。その彼にとって「新しく生まれる」とは途方もないことに思えたでしょう。

しかし、それ以上にニコデモを困惑させた理由は、神の国が「これまでの努力の延長線上にはない」ということでした。

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。」(ヨハネ5:39a)

律法の中に永遠のいのちがあると思って律法を探究し、律法を守り続けてきたニコデモにとって、「新しく生まれる」とは、次元の異なる話しであり、それを突きつけられたとき、思わず拒否してしまったのです。そこでイエス様は助け舟を出しました。

「新しく生まれなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それと同じである」(ヨハネ3:7〜8 口語訳)

ところが、この言葉に至っては、ニコデモは真っ向から否定します。

「どうして、そんなことがあり得ましょうか」(ヨハネ3:9b 口語訳) 

一体、ニコデモの何がそうさせたのでしょうか?

(3)主体が「自分」であり続けたニコデモ
「新しく生まれる」ということが、よく分からなかったとしても、ふつうは「それはどういうことですか?」と訊ねるのではないでしょうか、、、。しかし、ニコデモは「(私のような)老人が母の胎に再び入って・・・」と言い出します。これは、彼の理解する「神の国」が「自分で獲得するもの」であったためです。

もとより出産とは、母親が産み出す行為であって、胎児が自分の意思で、どうこうすることではありません。イエス様は「新しい気持ちで」とか「気分を一新して」とは言われませんでした。そうであるなら主体は自分です。しかし「新しく生まれる」となれば、主体は産み出す側にあります。風の話しも同じです。主体は風にあります。ニコデモはここに躓いたのです。

(4)それでもイエス様から離れなかったニコデモ
「新生」について理解できなかったニコデモでしたが、それでも彼は最後までイエス様から離れませんでした。そしてついに、十字架のイエス様と出会ったのです。(ヨハネ19:39)
あの夜、イエス様から、にべもなく言われたとき、ニコデモはきっとショックだったでしょう。それまで自分が積み重ねてきた努力が、すべて否定されてしまったように感じ、落胆したかもしれません。それでもニコデモはイエス様から離れませんでした。今朝、私たちはニコデモのこの姿勢に倣いたいと思います。

父なる神様は「見込みがある」と期待するからこそ、厳しく訓練します。愛するゆえです。(ヘブル12:5〜11)
父の心を思いつつ、主の訓練にギブアップしないように、今日も心を強くもってゆきましょう!

■A:考えてみよう
ニコデモのように、自分が努力してきたことが、かえって罠となることがあります。努力は素晴らしいものですが、努力できたこと自体が、実は主の恵みなのです。

主権はどこまでも主にあることを覚えましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 よしかず 】

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