■S:今日の聖書の言葉
士師記2章20〜23節
★それで、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がった。主は仰せられた。「この民は、わたしが彼らの先祖たちに命じたわたしの契約を破り、わたしの声に聞き従わなかったから、
わたしもまた、ヨシュアが死んだとき残していた国民を、彼らの前から一つも追い払わない。
彼らの先祖たちが主の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」
こうして、主はこれらの国民をただちに追い出さないで、残しておき、ヨシュアの手に渡されなかったのである。
■O:今日のコラム
ヨシュアの次の世代は主のみわざを知らない世代でした。それゆえに彼らは主の目の前に悪を行う世代になってしまいました。
私たちは主のしてくださった良いことを忘れてはなりません。そしてその中心である十字架のみわざを忘れてはなりません。それは私たちを守るのです。
彼らの不従順のゆえに主は敵を追い出さないと仰せられます。そして彼らが主に従って歩むかどうかを、この敵との戦いの中でテストすると語っておられます。言い換えるなら悔い改めて従順な者となるなら敵を追い出すということでもあります。敵の存在意義は、神の民のテストのためであると語っておられます。
ここでイスラエルの民に語られたことは私たちにも当てはまります。敵とはサタンともろもろの悪霊たちです。彼らがいまだに存在していることの一つの意義は私たちをテストするためです。私たちを整え、成長させ、テストして合格であるなら敵の役目は終わります。
主に聞き従うことは大切な礼拝です。愛をもって従うことは最高の礼拝なのです。
「するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(1サム15:22)
だから神を愛しているなら、神の命令を守り行うようになるのです。聞き従うためにはまず第一に聞かなければなりません。ベタニヤのマリヤは御言葉に聞き入っていましたがこれは、音楽を聴くような「聴く」ではなく従うための傾聴なのです。
そして従ってみて初めて自分の中の不従順な部分がハッキリわかるのです。テストされて私たちは、自分のできないところがハッキリわかるという恵みを受けます。受験生の模擬試験はそのために行いますよね。
主は試験済みの者を求めておられます。第一コリント11:19で「ほんとうの信者」と訳されている語は直訳では「試験済の信者」です。そして試験済の信者にとって、その敵の攻撃、その敵の武器は役に立たなくなります。なぜならもうその敵の役目はその人にとって終わっているからです。
同じような困難に出くわしても、もうその困難を困難と感じなくなっていくことがあります。そのように私たちは日々成長して行けることを感謝いたします。
■A:考えてみよう
従わないうちは、従うことなど難しくない、と感じることがあります。しかしやってみると難しいということがたくさんあります。聞き従う歩みの中に歩みましょう!そして自分でできないからこそ主を求め祈るようになるのです。
■P:祈り
主よ。あなたは悩む者の祈りを聞かれる方であることを感謝いたします。日々自分を捨て、自分の十字架を負って、あなたと歩むことを選ばせてください。余計な試みに合わせないでください。しかしあなたがお与えになる試みは喜んでお受けいたします。そのテストの先にある報いを信じ感謝いたします。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 まじまこ 】
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まじまこ様
主の御名を賛美します。
イスラエルの民は神のテストに合格することができず、厳しい裁きを受けて、一度はさばきづかさを通して悔い改めたにもかかわらず、さばきづかさが死ぬと以前よりも悪を行うようになったようです。
選民であるイスラエルの民も、アダムの末裔であり、罪人にすぎず、また、一度罪の誘惑に陥ると油のように霊、肉、魂に罪としみと咎が浸透して、悪いと知りながら罪から離れられなくなったからだと思います。
私はこのイスラエルの民の苦悩がよく分かります。イエスキリストの十字架の前でひざまずき、悔い改めて、イエス様の血潮による洗い清めを受けて、罪の性質から解放されたいと切に願っています。
本日のメッセージを感謝します。