■S:今日の聖書の言葉
詩篇81篇10節

★わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしがそれを満たそう。

■O:今日のコラム
近年、オーガニックの商品がとても増えています。オーガニックのフードはもちろん、コスメや洋服など多くのものが販売されているのを目にし、素材そのものの持つ良さ、栄養、美味しさを味わうことは、現代の志向の一つにあるように思います。そして私も、「からだにいい」と書いてあるとついつい手をのばしてしまいます。笑

食品添加物、味の濃いものなどでできた食事は、栄養があまりなかったり、素材の味をかき消してしまいます。そしてそのようなものを食べ続ける時に、私たちはその味に口が慣れていってしまい、麻痺してしまいます。
食べるものが体をつくるからこそ、何を食べるのか、それはとても大切なことです。そして、霊的にも同じような原則があるように思います。

今日の箇所は、口を大きくあけたら、それを主が満たすことが語られています。

また、別の箇所には、「私は口を大きくあけて、あえぎました。あなたを仰せを愛したからです。」(詩篇119:131)とあります。

口をあけるのは、不平不満や主に喜ばれない言葉を言うためではないことを覚えます。不平や不満は言っちゃダメ、悪口はダメ、それは難しいことで主の助けが必要ですが、ある意味当たり前のことでもあると思います。それをしてごめんなさいに、もうしませんと悔い改めることが目的より、その罪から解放されないと、聖書が勧めるみことばを愛することができないからそれらがダメなのかなと思いました。みことばを愛するため、食べるために口をあけることをまず初めに覚えます。

イエス様こそ、フレッシュ100パーセント純粋なみことばそのものなるお方でありますから、このお方の養いの中で私たちは十分に満ち満ちて歩んでいくことができるのを感謝いたします。しかし、時に私たちは、その純粋な神の言葉ではなく、加工されたもの、添加物の入ったもの、味付けが濃い、そのようなものを好んで食べてしまうことがあるのではないでしょうか。それは聖書では教えの風に振り回されると表現されていることであるのかなと思います。

現代に合う、私に合う教えを私たちは好みます。常識や自分たちの理解にはまることは受け入れやすいです。また興奮する、感動する、感情が湧き立てられる、そのようなことが霊的なことだと思ってしまう錯覚があります。

恐ろしいことに、その行き着く先は、自分主体の信仰です。私自身がそのような者であり、自分の感じること、正しいと思うことが主のこころだと、知らず知らずに偽りの種が芽生えてしまっていたように思います。(エペソ4章、コロサイ2章を通して何度も主は語りかけてくださいました。長いですが、お時間ある方はぜひお読みください。)

しかし、みことばが霊でありいのちなのです。純粋なみことばこそが最も霊的なものであることを覚えたいと思います。このみことばを愛する歩みを続けてから、みことばはイエスが主であることを指し示すものであり、そのような偽りの根を取り除くことを主が私のうちでなしてくださっている恵みを味わっています。

そして、このみことばの領域においても、第一のもの第一とする時に、神の言葉を神の言葉として受け取ることを求める時に、必要の答えも、悩みの解決も、満たしも気付いたら備えられていたことを何度も体験しています。

ちょうど先日分かち合いの中で、何でも食べることは雑食であり、犬や豚の性質であることを聞きました。何でもかんでも食べるなら、舌が麻痺してしあい、本当に味わうべきみことばの味わいを味わえなくなってしまうのです。まさにこの御言葉です。

「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き合ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」(マタイ7:6)

その姿は汚れたものとされています。反対に、きよい動物は、反芻するものだと旧約聖書を見るならば書かれています。みことばを味わい、口ずさみ、何度も噛んで噛んで深みを味わっていく。これが主にあってきよいものでありみことばを愛する姿であることを教えて頂きました。

歳を重ねれば、幼い時には分からなかった苦み、旨味の味わいを知るようになります。また歳を重ねれば、味の濃いものを食べると胃もたれしますし、体に悪いものではなくて、良いものを食べようと人は変わっていくと思います。時には体を壊して、強制的にそれらを手放すこともありますね。

霊的にも、みことばを味わい、他のものでなくこの言葉の深みを求めるようになっていくことは、成熟した大人の階段を歩んでいくことだなと思います。その中で間違ったものを食べている時には、主がそれらをストップさせてくださることもあります。

養育係に養育され、様々な機会を通して、イエス様に一歩一歩近く。近づけば近づくほど、真理が私たちのうちに開かれて、もっと知りたくなる。救われた時だけでなく、あるシーズンと一時的な飢え渇きではなく、ただこのお方を知りたいと口をあけてみことばに渇くことは、イエス様のとりことなった主を愛する花嫁の成熟に向かう一つのあらわれです。

「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。…ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。それはそれとして、私たちはすでに達している所を基準として、進むべきです。」(ピリピ3:12〜16)

今日のこの詩篇81篇の最後は、16節「わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせよう。」と閉じられています。イエス様という土台から離れての飲み食いでは私たちは満たされません。飲んで、食べてまたむなしさ、変わらないところをぐるぐると周り続けるでしょう。イエス様ご自身の上にあるみことばの味わいを今日もいただいて、真に満たされて歩んでいきたいと願います。

■A:考えてみよう
共に下記のことばを宣言し今日の祈り、信仰の告白としましょう。

「愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。」(2ペテロ3:17〜18)

みことばの朗読、立ち止まってみことばを反芻し思い巡らすこと、イエス様を見出していくことはみことばに向かうことであり、また同時に、間違いを悟り、それらを手放すこと、主の純粋なみことばで私を満たしてください、みことばを下さいと祈り求めることから、みことばに真剣になる歩みは深まっていくと信じます。

今日も、このみことばを求める歩みの一歩を進んでまいりましょう。

■P:祈り

愛する主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 ゆうこ 】

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一つのコメント


  1. しゅんいち より:

    ゆうこ様
     主の御名を賛美します。
     「口を大きくあけよ」と語られる神の言葉に応答する者でありたいと思います。 
     イエスキリストの血潮を宣言し、みことばを反芻しても、なお罪の要塞が肉の内に築かれており、肉の欲に引き戻される弱さを覚えます。
     最低6ヶ月はかかると思って始めた取組なので、残り5ヶ月時が良くても悪くても「みことばの朗読」を継続しようと思います。
     本日のメッセージを感謝します。

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