■S:今日の聖書の言葉
ペテロの手紙第二2章13~15節

★彼らは不義の報いとして損害を受けるのです。彼らは昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考えています。彼らは、しみや傷のようなもので、あなたがたといっしょに宴席に連なるときに自分たちのだましごとを楽しんでいるのです。
その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。彼らはのろいの子です。
彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。

■O:今日のコラム
ここには、異端の教え、バラムの教えに従って行った者には滅びがその報酬として与えられることが書かれています。そしてこの箇所の前を見るなら義の道に歩む者たちが救い出されることも。

このバラムの教えに従う者の心は何を報いと考えているのか?というと肉の欲を満たすことにあるのです。その者の目はいつも自分の肉を満たしてくれるものを探し続けているのだとも。

本来の私たちの目はイエス様を求めるようにデザインされており、私たちの報いはイエス様なのです。ヨハネ福音書においてもイエス様は「御父によって生まれた者は、わたしを愛する」のだと語っています。しかし、実は自分の中にも不義の報酬を愛し、イエス様を報いとして期待しない心があるのではないでしょうか?私たちはいつもそのような弱さを抱えています。

人が結婚して後に相手を愛せない心を持ち続けるとしたら惨めなことではないでしょうか?その家庭に子供が産まれたとして、子供を愛せない心を持ち続けるとしたら哀れなことではないでしょうか?そしてその人はこう祈るでしょう。「家族を愛せない心を捨てます。家族を心から愛せる者になりたいです」と。

私たちが愛せない心を捨てることができるのはイエス様の十字架だけです!私たちの救いは十字架にあります!

心から、純真にイエス様をまた隣人を愛せるとしたら何と素晴らしいことでしょう。私たちの目がイエス様を求め、私たちの歩みの報いがイエス様であると心から告白できるなら、私たちはどれほど安定した歩みとなるのでしょう。

■A:考えてみよう
私たちの目は何を求めているでしょう?私たちの報いは何でしょうか?先にあるものをハッキリ示されるためには、今日一歩一歩、示された道を前進することが大切です。
今日の1日が自分に語られた御言葉に応える1日となることを願い求めましょう。御言葉は私の道の光、足のともしびです。

■P:祈り
主よ。私はあなたのものです。そしてますます真実にあなたのものとなりたいのです。私はあなたを愛します。そしてますます純真にあなたを愛する者になりたいのです。あなたを愛する以上に何かに心惹かれることがあるならば、お示しください。その心を十字架の前で手放させてください。私の願いはあなたであり、私の歩みの報いはあなたです。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 まじまこ 】

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一つのコメント


  1. しゅんいち より:

    まじまこ様
     主の御名を賛美します。
     イエスの血潮を宣言する祈りとみことばの朗読と異言の祈りを初めて1ヶ月が経過しました。
     信仰の後退が起こるのは一瞬です。私は今も神と罪の間を行ったり来たりしています。霊は神をを求めても、肉は罪を慕い求めるからです
     でも、そんな自分だからこそ神の救いが必要なのだと自分に言い聞かせて、イエス様を求めています。
     本日のメッセージを感謝します。

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