■S:今日の聖書の言葉
テトスへの手紙1章15~16節
★きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。彼らは、神を知っていると口では言いますが、行いでは否定しています。実に忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。
■O:今日のコラム
今日の箇所では、健全な教え、主の御言葉について書かれています。10~11節では、割礼を受けた人々が、健全な教えではなく、不正な利を得るために教えてはいけないことを教え、彼らは真理から離れているとも書かれています。
この箇所を読み深める時に、律法学者やユダヤ人を思い起こしました。ユダヤ人は文字に書かれている表面上の行いを守っていましたが、そんな彼らに主は今日の箇所にもあるように、あなたがたは主の戒めを否定し律法を守っていないと言いました。(ヨハネ7:19参照)
また彼らは律法を守ることで自分の義につなげたり、自分に都合の良いような解釈をして、主の教えを偽りのパン種として受け取っていたのです。(ルカ12:1参照)
今日、この聖書の箇所は全く私たちに関係がないと思うのではなく、私たちこそが汚れた不信仰な者であることを覚えたいと思います。なぜなら主の教え自体に問題があるのではなく、受け取る側に問題があるからです。
「ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」(ローマ7:12)
聖であるはずの主の教えが、受け取る人が汚れて不信仰なのであれば何一つきよいものはありませんと聖書ははっきりと言っています。では、汚れた不信仰の人とはどのような人なのでしょうか?
「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)
様々な考え方があると思いますが、この御言葉から見ていくと、聞くことから始まる信仰に「不」がついた不信仰の人とは、聞けていない状態の人のことと言えるのではないでしょうか。
また、ローマ10:17の「キリストについてのみことば」は、原語を見ると「キリストの口からでることば」とも訳すことができます。つまり御言葉を、書かれている文字としてではなく、イエス様のことばとして聞きレーマを受け取る者こそがきよいものとされるのではないでしょうか?
人から聞いた聖書の言葉や自分勝手な解釈を超えて、イエス様ご自身から御言葉を教えていただくことを今日も追い求めていきたいと願います。もう何回も聞いたからとか、もうこの御言葉はこういう意味だということを今一度脇におき、新しい心を持って今日も聖霊様によって御言葉を悟ることを求めていきたいと願います。
「イエスは群衆を呼び寄せて言われた。『聞いて悟りなさい。」(マタイ15:10)
そして御言葉を通して主の心を悟り、最後の最後までそれを行うことだけを求めて走っていきたいと願います。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:21)
■A:考えてみよう
・御言葉を正しく聞けているだろうか。
・御言葉を読む時に、御言葉をイエス様のことばとして、レーマとして受け取ることを主に願っているだろうか。
・自分に都合の良い御言葉の解釈をしていないだろうか。
黙示録の5章4節には、巻き物を開くにも見ることができる者がおらず、激しく涙を流すヨハネの様子がかかれています。ヨハネの涙を私たちの涙とすることができますように!私たちの努力や頑張りを超えて、主が御言葉を開いてくださることを感謝します。
「すると、長老のひとりが、私に言った。『泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」(黙示録5:5)
■P:祈り
主よ。今日もあなたの御言葉が与えられていることを心から感謝いたします。これは当たり前のことではなく、本当に主の恵みです。今日も新しい心を持って御言葉を読むことができますように。自分の都合の良いように理解するのではなく、主が御言葉を開いて、御言葉の内側であるレーマを受け取ることができますように。
今の状態にとどまるのではなく、霊でありいのちであるイエス様のことばを追い求め続ける心を与えてください。
自分の頑張りを超えて、主が求める者に巻き物を開いてくださることを感謝します。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 まこと 】
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まこと様
主の御名を賛美します。
信仰の年数は長いのですが、一向に成長しない自分に嫌気がさしていました。偶然キリスト教書店で見かけた「内なる人」(アテフ・メシュキレー博士著)を読んで、新宿シャローム教会の存在を知り、信仰の軌道修正を図らせて頂いております。
私にとって、みことばは紙に書かれた活字に過ぎず、読んでも眠くなるだけで少しも喜びを感じられませんでした。
理由は、私自身の霊・肉・魂が広範囲にわたって罪に支配されており、聖霊の働きが遮断されて、みことばの恵みを体験することが出来ないことがわかりました。
「私に向かって、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国に入るのでなく、天におられる私の父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ:7.21)は、私への戒めのみことばであると同時に、私への永遠の滅びを宣言する恐ろしいみことばでした。
このように罪深い私ですが、イエスの血潮を宣言する祈りと異言の祈りによって、主のみこころを聞くだけでなく、行うことができるものになりたいと切に祈っています。覚えてお祈り頂ければ幸いです。
本日のメッセージを感謝します。