■S:今日の聖書の言葉
イザヤ書57章1節a

★義人が滅びても心に留める者はなく、誠実な人が取り去られても、心を向ける者もいない。

■O:今日のコラム
この1節を通して、イエス様の姿が目に浮かんできました。
私たちのために十字架にかかってくださったイエス様。尊ばれるべき神の子であるイエス様。義人、誠実なお方であるイエス様。
イエス様を知らない時には、私たちはこの方から離れて、目を留めずに歩んでいましたが、十字架のゆえに今私たちが生かされ、神の民として歩む恵みにあることを今日も感謝いたします。

けれども、日々歩む中において神様を知っていても、十字架の愛を受け取っていても、十字架に架かるイエス様を心に留めず、目を向けることができないことがあるのではないでしょうか。祈りの家で導きをする中において、十字架に感謝しましょう、恵みを受け取りましょうと祈りを導く機会に預かっていますが、私自身がそのことを一番覚える必要があると毎回思わされます。

「…彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53:2〜3)

この箇所は十字架に架かる主の姿が記された、みなさまもよくご存知の箇所ですが、よく読んでみると、「私たちが見とれる姿がなく」「私たちが慕うみばえもなく」「私たちも彼を尊ばなかった」と、なんと3回も「私たち」と記されていました。
それほどまでに、私たちは私たちの何かを十字架に見出そうとする者であり、反対に言うと、十字架に架かるイエス様に見を留めず、慕わず、尊べない性質が内にあるということなのだと思わされます。

二千年前ユダヤ人たちは、政治的なリーダーが来ることをメシアに求め、自分たちの律法の理解にかなうものがメシアであると思っていました。群衆はしるしや奇跡には目を向けました。イエス様の実体は神のことばですが(ヨハネ1章)、この一番大切な言葉を受け取ることができなかったのです。

「わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。」(ヨハネ‪8:37‬)

同じように私たちも、十字架の前に出てみても、「私」の求めるもの、慕うものを求めてしまうことがあるのではないでしょうか。もちろん主はそれらを与えることの出来るお方です。でも主は、見えることではなくて、見えないけれどもイエス様の実体であるみことばを尊ぶ者を探しておられます。
そうであるならば、十字架のイエス様、またそのみことばを尊ぶ者になるように一歩ずつ変えられていきたいです。そしてたとえそこに自分の求めるものがなくて、十字架の道を進まれたイエス様を後ろから歩む者になっていきたいと願います。

「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。」(1サムエル2:30b)

二千年前に来られまたやがて来られるイエス様。そしてまた、今日も、明日も、毎日毎日私たちの内に来てくださるイエス様。このお方を待ち望んでいる私たちが、もしそこに勝手な形、理想、解釈、枠、姿、答えなど、、、、を持っているならば、たとえイエス様が来ていたとしても気づかないということがあるのかもしれないなと思いました。それはまさに恵みがあるのに、それを自分から手放してしまっていることであり、ユダヤ人がメシアが既に来られたことを気がつかないような状態にあるようなものです。

主は私たちの羊飼いです。主は本当に本当に良いお方です。主は私たちをむなしくさせたいのでもはないのです。むしろ満ち足らせたいと願ってくださるお方です。そのような主の素晴らしいご性質をあげるならばきりがありません!!!主をほめたたえます!!!

そのことを思う時に、主が私たちに何もしてくださらないのではなくて、私たちの目が覆われてしまっているのだなと気がつきます。主が私たちを立ち止まらせてくださることがある時に、私たちは大きな葛藤を覚えますが、そのようなチャレンジを通る度本当に本当に愛されている証だなと思います。それらを通して、もっと正しく、もっとはっきり、イエス様を知っていく機会となり、本当に求めるべきものは何なのか、目が開かれていく時となることを感謝します。

私たちから出たイメージを手放して、理想を主に押しつけてしまう弱さを手放して、答えも自分で決めてしまうことも手放して、共に主がどのように言っておられるのかみことばに目を留めて、イエス様を尊ぶ者となることができますようにと祈り求めてまいりましょう。

まさに仮庵の祭り最中にある今、みことばなる主を愛して、このお方にある幸いを味わう恵みが注がれることを祝福いたします。

■A:考えてみよう
「今日十字架のイエス様に何を見出しているでしょうか?」

・イエス様に求めがあり、必要があるならば、それを告白しましょう。無いことの方がないなあと思う時に神様の助け無くして歩めないことを痛感します。しかし神様はそのことさえ知っておられ、こんな小さな私たちの心に目を留めてくださるお方であることを感謝します。

・私たちの何かを主に求めるだけで終わってしまうのでなく、主がこんな私に目を留めてくださるなら私たちもイエスの実体である神のみことばに目を留める者となることができますように。みことばの中にある真の豊かさ、いのちがまた今日も開かれていきますように。

共に下記のみことばを朗読して祈りましょう。

「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ‪3:17‬〜19)

■P:祈り

愛するイエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 ゆうこ 】

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