■S:今日の聖書の言葉
コロサイ人への手紙1章22節

★今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。

■O:今日のコラム
イスラエルのカレンダーにおいて、今は秋の祭りの一つである仮庵の祭りにあたります。この祭りは喜びに満ちた祭りであり、ユダヤ人たちは盛大にこの祭りをお祝いするそうです。

この秋の祭りは終わりの時代について示し、特に仮庵の祭りは、ユダヤ人の結婚式のように、スコットと呼ばれる仮庵を作ってその中で過ごします。それらのことから、この祭りは私たち花嫁なる教会の完成とイエス様との婚姻、婚宴を示している祭りになります。

ですからこの仮庵の祭りのとき、私たちは愛するイエス様との親密さ、永遠の愛、安息、一つとされることを覚え、そこに向かっていくとても大切な霊的なシーズンです。このシーズンにあたり、今一度私たちのゴール、私たちの最終的な姿はどのようなものなのかを覚えたいと願います。

今日の箇所にもあるように、私たちは聖く、傷なく、非難されるところのない者となることがゴールです。花嫁として成熟し、愛するイエス様の御前に立ち、イエス様と一つにされる、それが私たちの至るところです。

私たちを完全さへと向かわせるためにイエス様は命を捨てて、十字架にかかり、私たちを救い出してくださいました。主は私たちを変わることのない愛をもって愛してくださっています。

「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない』とあなたをあわれむ主は仰せられる。」(イザヤ54:10)

その主の十字架と愛は私たちを成熟へと向かわせることを感謝します。完成された姿になることを求めないことは、ある意味イエス様の十字架を無にすることと同じなのかもしれません。

私たちは時に状況、背景、また人を自分が神様へ向かわないことの言い訳としてしまいます。「あの人は賜物があるから」、「あの人は良い環境があるから」、「もっと生活が落ち着いて、家事を夫や妻が手伝ってくれれば」などと言い訳を並べてしまいます。また自分の弱さや足りなさを理由に、人と自分を比べて、自己卑下をもったり、嫉妬したりします。

しかし、私たちはそのように歩むために十字架によって救い出されたわけではありません。たしかに私たち自身からは何も良いものは出てきません。しかし主は私たちを買い取り、私たちを神の子、キリストの花嫁と言ってくださっています。ですので、私たちは花嫁として成熟することを1人1人それぞれが自分自身の召しとして受け取り、自分の決断によって自発的に主に向かわなければいけません。そのように歩むかどうかは神様の責任でも、他の人の責任でもなく、私たち1人1人の責任です。

私たちは1人1人が神様にあって任された自分の果たすべきことを行っていく必要があります。誰かが自分の代わりにレースを走ってくれるわけでもなく、逆に誰かのレースを代わりに走ることもできません。これは1人1人の走るべきレースです。イエス様と結婚する花嫁は単数形で1人ですが、その花嫁は御言葉となった者たちの集まりです(黙示録19:7~9参照)。

「おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」(ガラテヤ6:4~5)

「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。」(ピリピ2:12)

パウロは誰かの救いの達成ではなく、自分の救いの達成に努めなさいと言っています。このグループに属していたら、この教会にいたら、あのミニストリーをしたらなどによって自動的にレースを走れるわけではなく、自分自身が主との関係の中でこの召しを受け取り、ここに真剣に向かっていき、霊的な歩みをスタートさせ、また続けて一歩また一歩と主にあって進んでいく必要があります。

私たちはクリスチャンであっても、ノンクリスチャンであっても、最終的に1人ずつ主の前に立つことが定められています。そこで私たちは主からの報いを受け取ることになります。

「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」(2コリント5:10)

私たちのこの地上での歩みは永遠へと繋がるものです。1人1人がどのように歩むのかは、それぞれの決断と責任となります。

主の変わらない愛、永遠の愛、また十字架の恵みの力を受け取り、今一度自分が何者であるかを覚えたいと願います。人や環境のせいにすることなく、自分自身の決断として、成熟することを選び取っていこうではありませんか。

「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、」(ヘブル6:1)

成熟させるのは主ですが、成熟されることを選ぶかは私たちにかかっています。

キリストの身丈にまで成長し、イエス様と永遠に過ごすことを希望に、この仮庵のシーズンを過ごし、今日もイエス様とともに歩んでいきましょう。

■A:考えてみよう
・なぜ十字架によって赦され、贖われたのだろうか。
・私たちはどこを目指してクリスチャンとして生きているのだろうか。霊的な歩みを疎かにしていないだろうか。
・聖く、傷なく、非難されるところのない者とはどのような者だろうか。

■P:祈り
愛するイエス様、永遠の愛をもって私を愛してくださりありがとうございます。今日あなたのあやれみと恵みゆえに生かされていることを感謝します。
あなたは聖く、傷なく、非難されるところのない者とするために、十字架によって私を救い出してくださいました。しかし私の中に、成熟することを求めない心、自分ではなく他のことのせいにして、主を求めていない性質があることを認めます。赦してください。今日という日に、成熟すること、主を愛することを選び取ります。どうか主が完成へと導いてくださいますように。

愛する主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 たくみ 】

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