■S:今日の聖書の言葉
イザヤ書35章8節
★そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。
■O:今日のコラム
主に贖われた者たちが歩む道は聖なる道です。
主に贖われた者たちの歩みにおいて、聖さを愛すること、聖なるものとされていくことは、とても大切な歩みの一つです。
神様は、私たちを御前で聖く、傷のない者とするために選び、イエス様が私たち(教会)のためにご自身をささげられたのは、私たち(教会)を聖めて聖なるものとするためだからです。
では、聖さを愛する歩みとは、どういう歩みでしょうか?
「聖さを愛する」とは「イエス様を愛する」ことです。聖さを愛する歩みをするためには、主を愛する心が必要です。主を愛することが、聖さを選ぶこと、聖くなることを求めることの原動力となります。
私たちは、自分のために、自分が何かを得るために、自分が立派な人となるために、聖くなることを願うのではなく、主のために聖さを選ぶこと、イエス様を愛するがゆえに聖なるものとされることを求める心を持つことが必要です。
私たちは、自分の頑張りや行いでは聖くなることはできず、主なしには聖なるものとされることはできず、主なしには聖さを選ぶ歩みをすることもできません。
聖さは主のご性質であり、聖さは主から来るもので、私たちは主によってのみ、みことばであるイエス様、真理であるイエス様によってのみ、主イエスの血潮によってのみ、聖なるものとされるのです。私たちが聖なるものとされるのは、私たちがしたことではなく、イエス様が私たちのためにしてくださったことによるのです。
もし、自分のために聖さを求める心があるならば、自分の基準で聖さを求め、自分の努力や力、行いによって聖くなろうと頑張ってしまいますが、自分の行いや頑張りでは聖くなることはできません。
神の聖さとは、神との関係をもつ者に、神様から受け渡されるものであり、「聖なるものである」とは、「主に似ている者であるがゆえにこの世とは違う」という意味です。
主を愛するがゆえに聖くなることを求める心を持ち、完全に主に拠り頼み、主と歩み、主との親密さの中で、聖であられる主から主の聖さをいただくこと、主によって聖なるものとされることが必要です。
「聖さを愛する」ことは、「イエス様を愛する」ことであることを覚えて、今日も主を愛する歩みをすることができますように求め祈りましょう。
主を愛することが聖さを求めることの原動力となりますように、主を愛するゆえに、主のために、聖くなることを求めていく心が与えられますように願い祈りましょう。
また、私たちが願う以上に、主ご自身ふ私たちが聖なるものとされることを願っておられることを覚えたいと思います。主はご自分のいのちを捨てるほどに、十字架で血を流すほどに、苦しみを受けることを選ばれるほどに、私たちが聖なるものとされることを願っておられます。
私たちも自分の願いや思い、自分の力や欲を捨てて、私たちのためにいのちを捨ててくださった主のために、聖なるものとされることを求めようではありませんか。
■A:考えてみよう
聖なるものとされるということは、「分けられる」という意味があり、「聖なるものとされている」ことは、「主にとって特別だとみなされている」「主にとって特別なので分けられている」ということも意味します。
主は私たちを主の特別なものとして見てくださっているので、私たちも主を特別にしていきましょう。
一日のうちで主との時間を特別なものとして分けること、持てるものの中から主に捧げるものを特別なものとして分けておくこと、主ご自身を私たちの心の中で特別に愛し敬いあがめること、主を礼拝することを特別なものとして礼拝する歩みをすること、主の御名を特別なものとして尊びあがめること、主の御声を聴くことを一番特別に求めること…など、今日も主ご自身を、主との時間を、主を礼拝することを特別なものとしていきたいと願います。
私たちのうちに主を愛する心がますます大きくなり、主を愛する者として今日も主に造り変えられていきますように。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 ありさ 】
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