■S:今日の聖書の言葉
ルカによる福音書23章44,45節

★そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。
太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真っ二つに裂けた。

■O:今日のコラム
9月に入っても厳しい残暑が続いています。皆様、いかがお過ごしでしょうか?
と、時候の挨拶のようになってしまいましたが、この暑さの原因は何でしょうか?小学生でもわかりますね。太陽です。全ての被造物は神によって目的をもって創造され、不必要なものなどひとつもありません。

それでは、太陽は何の目的を持って創造されたかご存じでしょうか?考えてみてください。

私たちは学校で習ったことや社会で経験したことを聖書に当てはめようとしてしまいますが、逆です。聖書こそが真理でありますから、聖書が何を言っているかを知る必要があります。(だからといって学校の勉強をサボらないでください。一生懸命勉強していい点数を取ってください)

聖書には太陽が造られた目的が下記のように書かれています。

「神は仰せられた。『光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。』そのようになった。」(創世記1:14-15)

太陽の第一の目的は「しるし」のためです。「奇跡」とも訳されています。そのしるしのひとつが今日の聖書の個所です。

今日の聖書の個所に出てくる時間は太陽の通り道(黄道)の最も高い位置に太陽が位置している時間です。朝方や夕方ならまだしも、普通に考えて、お昼の12時から3時まで暗くなることはありえないことです。

しかし、主はこの時間を世界の初めから定めておられました。イエス様の十字架の時に太陽を「しるし」として用いられました。

この時は春でした。ちょうど過ぎ越しの祭りの時でした。過ぎ越しの祭りは出エジプト記に見られるように、子羊をほふり、その血をドアに塗ると死の霊は過ぎ去るというものです。これはまさにイエス様を指し示した出来事です。

主は太陽のしるしを用いて「これこそが過ぎ越しの預言の成就だ」と私たちに教えてくださっているのです。

■A:考えてみよう
画面を上にスクロールして、書かれている今日のみことばをもう一度注意深く読んでみてください。

暗くなったのは何時から何時でしたか?その暗くなった時に何が起こりましたか?

主の栄光が輝き、太陽が光を失いました。いつもは光がある時間なのに真っ暗になっている状況です。しかも、それが3時間ほど続きました。

私たちの人生においても、順調に進んでいるときに突如として暗闇が襲ってくることがあります。それはサタンの働きによることかもしれませんが、私たちは暗闇を恐れてしまうことがあります。また、文句を言ったり、人や自分、時には神様を恨んだりしてしまうこともあるかもしれません。

聖書の中では、暗闇の時に起こる出来事があります。

「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。」(創世記1:2-3)

神様によって、やみに光がもたらされました。何も見えなかったものが見えるようになったのです。詩篇にもこのように書かれています。

「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」(詩篇119:130)

まだ私たちが神様を知らなかった時、わきまえの無いものでした。そんな私たちにまことの光、栄光の主が現れてくださったからこそ、みことばを悟ることができ、何が神の目に正しく、間違っているかをわきまえ知るようになったのです。

みことばを見るなら、どうやら主の栄光は暗闇の中に輝くようです。

「見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。」(イザヤ60:2)

イエス様が来られる直前、イスラエルでは預言者はほとんどおらず、神を求める人々はどんどん少なくなり、信仰の火は消えてしまいそうな霊的な暗闇の状況でした。いまだかつてない霊的な暗闇の中、来られたのが救い主、イエス・キリストです。

「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネの福音書1:5)

当時のイスラエルでは、人々はまことの救い主がこの地に来てくださり、王としてこの地を治めてくださることを期待していました。しかし、人々の期待は裏腹にイエス様は逮捕され、十字架にかけられます。せっかく訪れた光がまた消えてしまいます。

しかし、この暗闇の中で何が起こったのでしょうか。もう一度画面をスクロールして、今日のみことばを見てみてください。

そうです。神殿の幕は真っ二つに裂けたのです。エデンの園以来、神と人を隔てていた壁が崩れた瞬間です。それは太陽の光が失われた時におこったことでした。

この地を照らす光は、言い換えればこの世の方法、知識ということができるでしょう。真理の光、主の栄光が輝くなら、私たちのやり方や方法は尽き果ててしまいます。そして、まことの聖所への道が開かれ、主との関係だけが残ります。

人生の中で困難を覚えていますか?八方ふさがりでどうしていいのかわからない状態にありますか?それは神様とのゆるぎない関係を築く最大のチャンスの時です。暗闇の中でつぶやき、文句を言うなら暗闇の中を歩み続けるでしょう。しかし、そのような状況であっても主を叫び求めるなら、まことの聖所への道が開かれていきます。

さらに、今日のみことばの意味を調べていくと、「太陽は暗くなって光を失った」という啓示が開かれていきました。この「失う」は、「尽き果てる、無くなる」という意味もあります。太陽の光は尽きてしまったのです。どうしてでしょうか?

ヨハネの福音書12:23で一粒の麦が地に落ちるというたとえの前に、イエス様はこのように言われました。

「すると、イエスは彼らに答えられた。『人の子が栄光を受ける時が来ました。』」

十字架はイエス様が栄光を受けられる時でした。父の御旨に従い、死にまでも従われました。その栄光はあまりににもまばゆいもので、太陽の光をも無くしてしまうほどの栄光でした。

「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」(黙示録22:5)

やがて来る新しいエルサレムでの情景を垣間見る場面です。なんと主は素晴らしいお方なのでしょうか!

神様がわたしたちの人生にもたらす太陽の光を失う「しるし」に気づかせていただきましょう。そして、みことばの真理によってグサッと刺され、自分の間違いを示されたなら、「やったー!私の生き方が変えられる時が来た!」と喜びましょう。

イエス様だけが栄光を受けられ、輝かれますように。

■P:祈り
愛する天のお父さん、私の人生をここまで導いてくださった事を感謝します。今まで大変な経験をしました。しかし、その時も主は私を助け、今、いのちを与え続けてくださっています。
また、私がまだイエス様に出会っていないときでさえも、私を守り導いてくださいました。それであれば、これからどんな困難が起ころうと、そこからも私たちを救い出してくださるという信仰を持ちます。
今までのやり方が通用しなくなった時、人生に困難が訪れたとき、それを人のせいにしていた私を赦してください。問題はあの人にあるのではなく、私の内にあります。
どうかヨハネの17章でイエス様が祈られた「あの栄光の中」に私を導き入れてください。そこでは今まで学んできたことは何の役にも立たないかもしれません。ただ、イエス様との関係だけが問われます。
少し恐れを覚えますが、あえて祈ります。その栄光の中に入れられるなら、暗闇をも通ります。今までのやり方も捨てます。たとえ死の陰の谷を歩くことがあっても、私は恐れません。あなたが私と共にいてくださいますから。
主が主となられるために、私のすべてを捨てて主に従います。もう、言い訳はしません。ただ、イエス様の栄光だけが光り輝きますように。

イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

【 しゅん 】

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