■S:今日の聖書の言葉
ルカによる福音書22章33~34節

★シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

■O:今日のコラム
「生きるのも主のため 死ぬのも主のため 主よこの身も魂もあなたのもの~♪」という懐かしい贊美があります。

私の中では、おっきくなったらイエス様のために生きるんだ!と信仰が培われた賛美の一つです。主のために生きていたいという告白の賛美が多くあるように、十字架の恵みを知り、主に捕らえていただけばいただくほど、私たちの中に十字架を負って主についていきたい!と願いが生まれていくのではないでしょうか。それは主が私たちをそのように造られたからです。

ペテロも同じでした。福音書を見るならば熱心に主の道を行こうとするペテロの姿を見ると思います。そのようなペテロでしたが、今日の箇所にあるように、「主よ、ついていきます。」と決心し告白したあとに、イエス様から否定されてしまいます。

自分自身を否定された時に出てくる性質、ここに肉の心が現れるなと思います。ペテロはそんなこと決して申しません!と、イエス様に反論する場面がマタイの福音書には書いてありました。

「人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値打ちをはかられる。」(箴言16:2)

この時ペテロにあった心はどのようなものだったのでしょうか。もちろん素直に主について行きたいと願ったでしょう。しかしそれと同時に24節で弟子たちは、この中で誰が一番偉いだろうかと話していました。また、同じ場面が描かれたマタイ26章では、ペテロは「たといみながつまずいても、私は決してつまずきません。」とまで告白しています。これらの箇所を読む時に、ペテロの中に、人と比べる、自分を誇る、そのような心があったことが分かります。

「あなたは私を裏切る」とイエス様から言われることはなんと悲しいことでしょうか。しかし、本当にそうなのです。

十字架の道を行くことの美徳のようなイメージが私たちにはあるように思います。立派な人、素晴らしい、熱心な人は十字架の道を行っている人と思いやすいです。でも、十字架の道を行こうとする時に悟るのは、私たちは自分の力によっては十字架の道を行けないと言うことではないでしょうか。

私たちは何度も何度もイエス様を悲しませてしまう者であり、イエス様のためについていくと涙をもって告白したとしても、この心は次の瞬間は変わってしまうものです。

私自身幾度もそのことを直面する中で、ある時、「私はとてもとても十字架なんて負えません。ついていきたいと思うけど、その言葉を告白するのがとてもとても重くてできません」と祈りました。神様は、その告白を待ってたよ、自分でなんとかすることに降参しなさいと語ってくださったように感じました。またその祈りの中で、神様は神様の純粋さを与えると語りかけてくださいました。

私たちの中には純粋さはありません。性格や信仰の姿で、私たちが考える、純粋だなーと思う人が確かにいます。しかし、神様の純粋さは、神様しかお持ちではないのです。

「主のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。」(詩篇12:6)

「神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。」(詩篇18:30)

神のことばが純粋なのです。本当の純粋さは、人が思い描くものでも人から生まれるものでもなく、神の言葉から生まれてきます。この言葉をいただくならば、純粋な神のことばから生まれる歩みをなしていけるのです。

続くこの後の箇所で、ゲッセマネの祈りが書かれています。肉の力ではなくて、真に十字架を行く者の姿をイエス様が私たちに示してくださいました。ゲッセマネでの油しぼりの祈り、自らを捧げ、否定して、そしてみことばなるイエス様が十字架の道を進んで行かれます。

実際的に与えられた働きにおいても負うべき十字架、それぞれが進んでおられる主の道があると思います。本当に多くの方が、神様の働きのため、あらゆる領域で仕えておられ、そのことを通して神様の働きが広げられています。と同時に、肉の心を切り離し、純粋なみことばを宿しみことばを満たした者たちが、十字架の道を行く者であることを今日覚えたいと思います。

命を懸けて愛され、赦されていること、その恵みに心から感謝します。もっと私も主を愛したい、もっと十字架の道を進まさせて願うなら、内をみことばで、御霊で満たしていただこうではありませんか。

■A:考えてみよう
正午はイエス様が十字架に架かってくださった象徴的な時間です。

祈りの家においては毎日この時間に、導かれるみことばを告白し、十字架の恵みを受け取り、私たちも十字架の道を進んでいけるように祈りを捧げます。導かれる方はそれぞれの場所で始めてみることをお勧めいたします。

祈りとみことばの告白の中で、聖霊様に私たちの内側を探っていただき、十字架の道を行くことを妨げているものが取り去られていきますように。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちにいきておられるのです。」(ガラテヤ2:20a)

■P:祈り

愛するイエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 ゆうこ 】

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