■S:今日の聖書の言葉
ルカによる福音書17章26~35節

★人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。
ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。
また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、
ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。
人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。
その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。
ロトの妻を思い出しなさい。
自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。
あなたがたに言いますが、その夜、同じ寝台で男がふたり寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。
女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。」

■O:今日のコラム
携挙はキリスト教の中でも様々な意見が分かれるトピックです。携挙の教えに反対する人々は「そもそも携挙という言葉が聖書に出て来ない。」と主張します。しかし、聖書のいくつもの箇所から携挙の確かな根拠を見出すことが出来ます。まずパウロは第一テサロニケの手紙において明確に携挙の教えをしています。

「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(1テサロニケ4章16,17節)

ここには「一挙に引き上げられ」と記されていますが、これはギリシャ語で「ハルパゾー」という言葉が用いられており「奪い去る、激しい力で運び去る」という意味があります。このハルパゾーがラテン語に訳された時「ラプトゥス」という言葉になり、それが英語の「ラプチャー(携挙)」の語源となりました。

19世紀のイギリスを中心にディスペンセーション神学が広まり、この神学を通して携挙が提唱されたので、携挙の教えに反対する多くの人は、「携挙は近年出来た間違った神学による教えだ。」と主張します。しかし、先に記した第一テサロニケ4章にあるように、言葉を調べれば「携挙」という語句の正当性を聖書の中に見出すことが出来るのです。

また旧約聖書に登場するエノクは生きたまま天に引き上げられた人物ですが、彼は明確な携挙の型です。エノクは天に引き上げられた聖徒たちがキリストの再臨の時に、キリストと共に天からこの地に戻って来る様子を預言しています(ユダ書14節 参照)。

ここで「再臨」と「携挙」の違いを明確に認識する必要があります。「再臨」は七年間の大患難時代の最後にキリストがオリーブ山に降りて来られ、黄金門を通ってエルサレムの神殿に入城し、そこで王として治めることを指します。「再臨」は明確に時が解ります。大患難期の七年間の最後です。そして大患難期はいつから七年がスタートするのかと言うと「エルサレムの神殿の丘に神殿(第三神殿)を再建せよ。」との命令が出た時からです(ダニエル書9章24~27節 参照)。

しかし「携挙」は人々が「平和だ。安全だ。」と日常生活を送っている時に盗人のように突如として起こる出来事です。上記のルカの福音書17章の御言葉ではイエス様が携挙について明確に教えておられますが、そこでノアとロトを例に挙げ、ノアの日に人々は「人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていた」。またロトの日に人々は「食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていた。」と言われており、つまり人々は主の訪れの時に対して何も気にかけること無く自分たちの日常生活を送っていたことが言われています。

その例の中で主イエスは「ノアが箱舟にはいるその日まで」、「ロトがソドムから出て行くと」と言及されており、これは携挙に対する重要な啓示となります。さらにその時、「同じ寝台で男がふたり寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。」と言われており、これが携挙でなければ一体何なのでしょうか。

このことから携挙は私たちの今のような日常生活を何気なく送っている時に突如として起こるものなのです。第一テサロニケ5章3節には人々が「平和だ。安全だ。」と言っている時に突如として起こることが記されています。しかし、再臨の前には黙示録に記されている通りに、この地上で人類が未だかつて味わったことのない様な患難が臨むのであり、とても「平和だ。安全だ。」と言えるような状況では無いことを覚え、「携挙」と「再臨」の違いを明確に知る必要があります。

携挙はいつかわからないので、私たちは日々「マラナタ。主イエスよ。来てください。」と花婿なる主イエスを待ち望み、信仰の目を覚まして、祈りと御言葉の生活を送る必要があるのです。今日という日が携挙への重要な備え日であることを日々覚えて、御霊なる主の助けを受けて一日一日、イエス様の道を共に歩んで行こうではありませんか。

■A:考えてみよう
ルカの福音書17章全体を朗読し、日々「目を覚ます」信仰が備えられることを主に願い求めて祈りましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しんご 】

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