■S:今日の聖書の言葉
ルカの福音書16章27,28節

★彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

■O:今日のコラム
今日の箇所はイエス様が語られた「金持ちとラザロ」のたとえ話です。金持ちとラザロの死後の話が描かれています。金持ちはハデスの中から苦しみながら父アブラハムに上記のように懇願します。

金持ちは「もし、ラザロが死人の中から生き返って、金持ちの兄弟たちに真実を伝えるなら、そのような奇跡を目の当たりにして、兄弟たちは改心するに違いない」と考えたのでしょう。

人はしるしや奇跡を好みます。現代の日本のクリスチャンも、海外からの癒やしの賜物や奇跡の賜物を持つ器が来ると大歓迎します。賜物自体は、神様がキリスト者の益となるようにと与えてくださったもので、本当に素晴らしいものでありますし、そのような癒やしや奇跡の御業を体験することを通して、励ましや慰めを受けることは大切なことであると思います。

けれど、時に、しるしや奇跡を求める情熱が、神様を知りたいという飢え渇きを遥かに超えてしまい、自分の益だけを求める情熱となってしまうことがあります。

しるしや奇跡を求める熱心の根底に、このような祈りが隠れているのです。「このしるし、この奇跡を見せてくださったら、私はあなたが神であることを信じます。私の願っていることを実現させてくれたら、あなたが神であると認めて従います。」
これは、誰が上でしょうか?これは神ではなく、人間が上に来ている祈りです。

信仰がまだ幼い場合はこのような祈りが出てくることもあるでしょう。天の父は優しいお方で、このような幼い信仰に対して真摯にこたえてくださいます。主ご自身が生きて働かれる方であることを人々に理解させるために、このような祈りにも答えてくださいます。私もかつて、このような祈りを捧げ、御父が答えてくださったことはたくさんあります。

けれども、霊的に成長しているキリスト者であるならば、このような幼い自分中心の祈りを捧げることから、先に進まなければなりません。

しるしを体験した後、イエス様を追いかける人々に対してイエス様は次のように語られました。

「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。』」(ヨハネ6:26)

イエス様を追いかける人々の心の動機を見抜き、「あなたたちは、しるしの上に働く神に対して飢え渇いているのではなく、パンを食べて満腹になりたい(自分の肉を満たしたい)だけに過ぎない」と指摘されたのです。

福音書の中において、イエス様にしるしや奇跡を求めたのは律法学者やパリサイ人たちでした。

「そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。『先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。』」(マタイ12:38)

「パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。」(マタイ16:1)

しるしや奇跡は影響力が大きいので、自分自身がそれを体験すればもっと信仰が強められるような気もしますし、伝道するのも、しるしが見せられれば楽だろうと思います。「今、ここで自分に奇跡を行う賜物があったらなぁ、ここにいる全員、イエス様を信じるだろうになぁ。。。」私自身、こう思うことがあります。

けれども、イエス様はたとえ話の中で次のように言われました。

「しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』
彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』
アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」(ルカ16:29~31)

「モーセと預言者との教え」とは、聖書のことです。人はたとえ、しるしや奇跡を見たとしても、聖書の教えに耳を傾け従っていないのであれば、永遠のいのちに至る信仰をもつことは出来ないことを、主が教えてくださっています。

「しかし、イエスは彼らに答えて言われた。 「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる』と言うし、朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。
悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」そう言って、イエスは彼らを残して去って行かれた。」(マタイ16:2~4)

イエス様が帰ってこられる時は迫っています。新約の時代に、弟子たちが「主が来られる日は近い」と励まし合っていた時代よりも、少なくとも2000年も「その日」が近いことを今日、覚えたいと願います。

神の聖徒たちが、日々、何を求めて生きるべきなのか、何が第一優先であるべきか、時を見分けて歩むことができますように。

■A:考えてみよう
終わりの時代のしるしや不思議については、イエス様からの警告があります。

「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」(マタイ24:24)

神はしるしと不思議をなされる方です。その御方の御業を求めることは良いことです。使徒の中でも、人々の救いのために主は使徒たちを通して多くのしるしや不思議をなさいました。けれども、それ自体が、神ご自身に対する飢え渇きを超えてしまうことがないようにしましょう。

私たちは、日々、祈りとみことばの中で神の息吹を肌で感じ、神の御心を悟り、たましいが神のことばによって造り変えられています。これこそが超自然的な神の御業ではないでしょうか。私たちはこのようにして、日々、神の奇跡を体験していることを感謝します!

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 みちる 】

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