■S:今日の聖書の言葉
ルカによる福音書9章23~24節

★イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。

■O:今日のコラム
今日の御言葉には主イエスに従う私たちが歩むべき重要な道が示されています。それは十字架を負って歩む道です。

では十字架の道とは何でしょうか。十字架には二つの重要な愛が啓示されています。それは、神への愛と、隣人への愛です。十字架の縦の棒は主への真っ直ぐな愛(第一の戒め)であり、十字架の横の棒は人々への愛と憐れみ(第二の戒め)を示しています。つまり十字架を負う生き方とは、神を愛し、隣人を愛するが故に、自己中心を放棄する生き方と言うことが出来ます。

パウロはこの十字架を負う生き方についてガラテヤ人への手紙でこのように述べています。

「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」(ガラテヤ6:2)

ここに記されている「重荷」とは巨石のような大きさで、誰も一人では追いきれない重荷を意味する言葉が使用されています。何よりもまず主イエスがこのことを私たちの為に実行し、誰も負いきれない罪・咎・呪いの重荷を全て背負ってくださったことを覚えて感謝を捧げようではありませんか。そして日々、主イエスの十字架の前に進み出て罪の重荷を主に明け渡し、罪の赦しと完全な贖いをもたらす偉大な十字架の恵みを受け取り続けようではありませんか。

この偉大な主の恵みを受ける時、今度は私たちも人々に恵みを分かち合い、互いにとりなし合い、霊・魂・肉体において霊的にも物理的にも支え合い、初代教会の聖徒たちのように祈りにおいても経済的にもお互いに助け合いながらキリストの律法を全うして行くことが出来るのです。
それと同時にもう一つの大切な重荷についてパウロは後の節で述べています。

「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」(ガラテヤ6:5)

ここに記されている「重荷」はリュックサックの様にそれぞれが背負うことが出来る、いや背負う必要のある重荷のことです。

上記の御言葉でイエス様は「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と言われています。私たちに任せられた十字架(重荷、責任)は一度だけでなく、日々背負って歩んで行く必要があります。

人は怒りの感情に捕らわれ支配される時、いつも心の中に憤りがあり、口を開く度に怒りの対象となる人々やグループに対して不満と訴えが出てきます。そして自分がどのように傷つけられ、理解されず、不当な扱いを受けたかを何度も述べ続けるのです。

確かに、その傷は痛く、また傷つけた人々は悪いかもしれません。しかし、私たちは「もうそこにとどまらない。」と決断し、毎日怒りと呪いを口にする代わりに、主の十字架の前で自分の憤りを捨て、十字架は全ての呪いを祝福へと変える場所なので、怒りの代わりに毎日を赦しと祝福を告白する日として生きることが出来るのです。

その他にも、日々の生活の中で直面する葛藤や弱さ、誘惑や苦しみ、自分の人生の中にある全ての痛みを飢え渇いてイエス様を求め、ますます主に依り頼み、主を愛する動機とすることが出来ます。

日々私たちが負うべき十字架があります。しかし、その十字架は私たちを日々もっと近く、もっと深く主イエスへと惹き寄せる道となるのです。今日も十字架を負ってイエス様の足跡に従って歩んで行こうではありませんか。

■A:考えてみよう
ルカの福音書9章全体を朗読し、今日も自分を捨て、主の十字架の道を歩んで行く事ができる様に、聖霊様を求めて祈りましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しんご 】

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