■S:今日の聖書の言葉
テサロニケ人への手紙第一5章16~18節
★いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
■O:今日のコラム
私たちの教会では、このみことばが高い頻度で講壇から語られるていることを感謝します。「これこそが!」神が私たちに願っておられることであるということも、皆さんの心にも刻まれていることと信じて感謝します。
「いつも喜んでいなさい。」今日はこの節にフォーカスしたいと思います。いつも喜ぶ、とは文字通り、いつも喜んでいることでありますが、それに加えて、詳訳聖書においては以下のように記されています。
「絶えず、いつでも自分の信仰によって、幸福でありなさい。」
いつも幸福である、幸せで祝福されている、とはどういうことでしょうか。
自分の願いが叶えられること、自分の必要が満たされること、順風満帆の毎日、置かれている環境が万全で困難がないこと…etc 幸せ、祝福というと色々な定義が思い浮かぶでしょう。
人間の持つすべての欲を満たしたであろうソロモンは、結局すべてが虚しいという結論を出しました。
「私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。
しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。」(伝道2:10,11a)
以前、知り合ったクリスチャンの方の証しです。彼はイエス様に出会う前は多くの富を持ち、多くの女性たちに囲まれるような人生だったそうです。お金の使い道が思いつかないほどの富をもち、何台も何台も外車を所有し、女性にもモテモテの生活だったそうです。「だけど、手に入れれば手に入れるほど、虚しさが増していきました。だから、ソロモンの気持ちが分かります。」と語っていました。
幸福である、幸せであるとはなんでしょう。詩篇の作者は、こう歌っています。
「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」(詩篇73:28a)
この詩篇を歌ったアサフも幸福を探しました。ソロモンのように、肉の欲するすべてを手に入れている者を見て、そこにこそ幸いがあるのではないか、何も有していない自分は不幸ではないか、と葛藤を覚えました。けれども、アサフはそのような葛藤の祈りの中で、「神のそばにいることが幸せである」という真理を見つけました。
私自身も色々な葛藤を覚える時、このアサフの祈りを告白します。そうすると、その真理に目が開かれ、大きな慰めを得ることができ、心がこの上もない喜びに満たされます。何がなくとも、主との関係さえあれば、本当はもうなんにもいらないのです。
いつも喜ぶこと。いつも幸福であること。それは、いつも愛の笑顔であること。信仰告白し前向きであること。神の善、天に属する希望で思いを満たすこと。それらも含まれるでしょう。
けれども、何にもまさって、「神の近くにいること、神との親密さを求め、へりくだって神とともに歩むこと。」それが「いつも喜ぶ」ことの、本質であると信じます。
■A:考えてみよう
自分の予期していない状況に見舞われても、長いこと祈り願い続けてきたことの結果が見えない時でも、私たちの本当の幸いは神の近くにいることであることを、思い起こしましょう。
今日の私たちの告白がアサフと同じものでありますように。
「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」
■P:祈り
恵み深い天の父よ。今日という素晴らしい日を感謝します。御子の十字架の愛を受け取ります。聖霊様、歓迎します。
みことばの語っているように、いつも喜ぶ者、幸いな者とならせてください。御霊の助けを求めます。
望み得ない時にも神にあって望みをもつことができる信仰を与えてください。地上にあるものではなく、私の心の目が、今日も天にあるものへとむけられますように。
神様、あなたのそばにいること、あなたと共に歩むことが、私の喜びである以上にあなたの喜びであることを感謝します。それこそが私の本当の幸いであることを、今日、さらに体験し、深く悟ることができますように。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 みちる 】
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