■S:今日の聖書の言葉
ネヘミヤ記1章4-6節(ネヘミヤ記2章)
★ 私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って、 言った。「ああ、天の神、主。大いなる、恐るべき神。主を愛し、主の命令を守る者に対しては、契約を守り、いつくしみを賜る方。どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。
私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。
■O:今日のコラム
私達は、全ての者がとりなす者として召されています。私たちは、祭司ですから。そして、私たちの模範となられるイエス様も、絶えることなくとりなし続けておられますから。
しかし、何でもかんでもとりなすことはできません。国のため、町のため、家族のため、に祈る。してらっしゃる方も大勢いるでしょう。
何でもかんでもとなると、全ての上司の家族の救いのため、運動会の日の天気のため、隣の息子の成績のためなどと祈りだしたら、とても一人で担いきれません。
私達が何をとりなすべきかは、主が教えてくださいます。ネヘミヤはそれを受け取ったのです。エルサレムの状態について聞いたときに内側から湧き上がってくる悲しみによって、破れに立ち、自ら悔い改めをもって祈りました。
私たちの生活においても同じことが起きます。友達の良くない習慣を見たとき、町の中で言い争っている人を見る時、家族の中に病気の人がいるとき、悲しみとともに、心にとりなしの思いがやってきます。
直接自分が関わってアクションを起こせる立場ならばそうすれば良いでしょう。アドバイスや手を置いて祈るなど。しかし、これはまずとりなしの祈りを主から求められている、と感じる時が必ずあるはずです。
なぜ、主は、そんな思いをお与えになるのでしょう。直接、そこに御業を解き放ってくだされば良いのに、と思ったことはないですか?
けれども主は、ご自身のすることをまず、預言者に伝えずにすることはない方です。同時に私たちの祈りなしにこの地上で、御手を振るいたいとは思っておられません。
だからイエス様は、『御心が天でなされているように、この地上でもなせれるように』祈りなさいとおっしゃいます。私達がこの地で御心が解き放たれるように祈らなければ、それをしたくないからです。
心に悲しみの来るとき、破れに立って自らも悔い改め、とりなして祈りましょう。主はそこに救い(回復)を用意しておられます。
『神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。』(コリント人への手紙 第二 7章10節)
■A:考えてみよう
自分に与えられる、とりなしの心に応えて祈る事を覚える。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 まじまこ 】
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