■S:今日の聖書の言葉
詩篇58篇11節
★こうして人々は言おう。「まことに、正しい者には報いがある。まことに、さばく神が、地におられる。」
■O:今日のコラム
映画や漫画などで、面白いストーリーというのは法則があります。正義のヒーロー(にやがてなる)人物が登場します。その人物は自分の運命に気づき、ヒーローとしての道を歩み始めます。ところが、強敵が現れてコテンパンにされます。もう誰もが無理だと思っていた時に超自然的な力や助っ人などが現れ、強敵を倒してしまいます。これに肉付けするなら、ある程度面白いストーリーを作れるはずです。
私たちの人生でも、同じようなことが言えるかもしれません。順調に歩んでいるところに突如として思いがけないことが起こりますが、それを何とか乗り越えていきます。
ダビデもまさにそのような人物でした。沢山の困難な状況を乗り越え、多くの敵に囲まれても、ダビデは主への信仰を失いませんでした。
敵が成敗されるのは見ていてとても気持ちのいいものです。ドラマで「倍返し」という言葉を聞いたことがあります。できるものなら、敵対する者に対して、自らの力でコテンパンにすることができたら、どれほどすっきりするかわかりません。しかし、それは神様の願われる復讐の方法ではありません。
ダビデは本当は自分の手で復讐をしたかったのかもしれません。しかし、彼は自分の欲望に従うことはしませんでした。サウルが洞穴で用を足していた時、部下が言った用ようにサウルの命を取ることができたにも関わらず、衣を切り取ったことでさえ心を痛めました。
みことばは復讐することに対して、このように教えます。
「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」(レビ19:18)
「復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ。」(申命記32:35)
「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」(ローマ12:19)
私たちはどんなに憎い人がいても、自らの手で復讐してはいけません。それは神様がなさる領域です。私たちが行う復讐と、神様ご自身が行う復讐、どちらが相手にとって甚大なダメージを及ぼすでしょうか。よく考えてみてください。
しかし、敵対する者に対して、怒りの感情が出てきてしまうものです。では、その感情を持つことは罪なのでしょうか。みことばはこのように教えます。
「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」(エペソ4:26)
怒りの感情は出てきてしまいます。しかし、それを持ち続けることが罪だと言っています。実際、この詩篇の中で、ダビデもかなりの勢いで憤っています。8節には「彼らを、溶けて、消えていくかたつむりのように、また、日の目を見ない、死産の子のようにしてください。」とまで言っています。一言でいうなら「死んでくれ」と言っているようなものです。ダビデの正直な告白でしょう。
しかし、ここで考えなければならないのは、ダビデが誰に向かってこのことを言っているかです。この詩篇はダビデに敵対する者に対して直接言っているのではありません。神様に対しての告白です。ここがとても重要なポイントです。
私たちは怒っても、それを人に対して投げてはいけません。怒りを神に投げるのです。
「そんなことしていいの?」と思うかもしれませんが、イエス様はそのために十字架にかかってくださいました。イエス様は十字架で私たちのすべての罪、咎を担ってくださいました。私たちがイエス様を信じて歩む道において、罪を犯さないようにしてくださるためです。もし、私たちが直接敵対する者に対して復讐をするなら、私たちの手は血に染まってしまいます。(ことばで復讐したとしても、その行いのゆえに霊的な手が血に染まるでしょう)
イエス様は私たちの手が復讐の血に染まるのではなく、イエス様の血で覆われるよう、十字架で血を流してくださいました。イエス様をもう一度十字架につけてしまうことの無いように、敵対する者に対して直接復讐するのではなく、すべてを神様にお委ねしてきましょう。
■A:考えてみよう
赦せない人がいますか?憎い人がいますか?その人に直接的に復讐したいという欲望はありますか?その敵対する者が滅んで欲しいと願ったことはありますか?もし、それが実現したらどうなりますか?その人は永遠のいのちにみちびかれるでしょうか。敵対する者が本当に滅んでしまったら、あなたの内には神への感謝があふれるでしょうか。それとも、苦い後悔の思いが残るでしょうか。
自分の手で復讐することは気持ちのいいことかもしれません。しかし、それはベストの選択ではありません。みことばに従う復讐の方法こそ、最大の復讐の方法です。
次のみことばを思いめぐらしてみてください。
「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。
あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。
愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」(ローマ12:17-19)
ダビデも、これほどまでに赤裸々に敵への気持ちを歌っている詩篇ですが、冒頭にはこのように説明がなされています。
「指揮者のために。「滅ぼすな」の調べに合わせて。ダビデのミクタム」
ダビデは確かに敵対する者への怒りの感情を持っていましたが、同時に彼が滅びるのではなく、悔い改め、神に立ち返ってほしいという願いを持っていたのではないかと思います。ダビデは良いと思うことを図りました。
だからこそ、この感情をどの人にも打ち明けることなく、すべてを創造し、すべてを治めてくださっている神様に向かって「主よ、私がどれだけ苦しんでいるのかご存じでしょう?敵がどれほどの事をしているのかご存じでしょう?だから正しいさばきをしてください」と神に向かって叫びます。ダビデの正直な祈りです。この正直さを神様は喜ばれます。
繰り返しますが、怒りの感情は人に向けるのではなく、十字架に向けましょう。木にかけられるものはすべて呪われたものと書いてあります。イエス様は十字架の上で私たちのすべての感情を受け取ってくださいます。
そして、敵対する者に対しては祝福し、祈りましょう。
「あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。」(ルカ6:28)
これが敵の頭に炭火を積むということです。
「もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。
あなたはこうして彼の頭に燃える炭火を積むことになり、【主】があなたに報いてくださる。」(箴言25:21-22)
キリスト者としてこのような選択をし続けるなら、次のみことばが実現するでしょう。
「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(2ペテロ3:9)
■P:祈り
天と地を創造された唯一の神なる父よ。今日のみことばを感謝します。
主は「人が、ひとるでいるのは良くない」と言われました。しかし、人との間に摩擦が生じてしまうこともあります。それゆえに心が締め付けられるような思いをすることもあります。
しかし、みことばは「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」と教えます。どうか、最高の律法と言われる「隣人を愛する」という領域にまで私を導いてください。そのためにはすべてをかけてあなたを愛する必要があります。そして、自分を神様が見られる正しいアイデンティティーをもって愛ることができますように。
どうか、すべての人を敵として見るのではなく、神様が創造された最高傑作の作品として見ることができる目を与えてください。
「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」(1ヨハネ4:12)
イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
【しゅん】
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