■S:今日の聖書の言葉
コリント人への手紙第一6章7節
★そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。
■O:今日のコラム
皆さんは、濡れ衣を着せられた経験はありますか?つまり、自分がやっていないのに、自分のせいにされてしまったこと。これが法に触れるレベルであれば冤罪です。
私が高校3年生のとき。大学模試を受けるために学年全員が講堂に集まっていました。私のすぐ前に座っていた生徒の態度が悪かったため、先生が注意しました。その先生が去ってゆく後ろ姿に向かって、彼は「うるせえ、このハゲ」と暴言を吐きました。と、その時、続いて別の先生が通りかかり、振り向きざまに「お前!今、なんて言ったぁ」と怒声を上げたのですが、何と、それは私に対してでした。「えっ」一瞬のことで、私は何が起きたのかわからず、頭が真っ白になり、そのまま職員室へ引っ張ってゆかれました。
職員室で、こんこんとやられ、結局、模試は受けられず、私は教室へ戻りました。すると、かの生徒が私のところに来て、「ごめん、、、」と謝ってきました。そのとき私は、ようやく記憶が蘇ってきて、何が起きたのか分かりました。「そうだ、、、そうだよ。こいつが言ったんだ。僕じゃない」それでも、彼が「黙っていてくれ」と懇願するので、私も(自分がやったのではないことがわかって、ホッとしたこともあり)「もういいや」と、そのまま誰にも何も言いませんでした。
37年も前のことですが、今でも忘れることができません。(それにしても、人間、気が動転すると、自分がやってもいないことを、自分がやってしまったと、思い違いをしてしまうことがあり得るのです。実に恐ろしいことですが、、、)
さて、今朝の御言葉は、とても難しい要求ではないでしょうか。「不正を甘んじて受ける」「むしろだまされている」、、、それは、言うほど易しいことではありません。なぜパウロは、そんな無茶と思えることを要求しているのでしょうか?教会内では、揉めごとを起こさないでくれ、という「事なかれ主義」でしょうか?
イエス様の生涯は決して「事なかれ主義」ではありませんでした。否、むしろ、イエス様は律法学者、パリサイ人らの批判に対して、毅然と反論なさいました。安息日に病人を癒した、という批判に対して、「あなた方は、自分の羊が穴に落ちた場合、安息日だからといって、引き上げないのか?(引き上げているではないか)」(マタイ12:11~12) また、安息日に麦畑の麦を食べた、と弟子たちが批難されたときも、「ダビデとその供の者が飢えたとき、ダビデが何をしたか聖書で読んだことがないのか?」と反論なさいました。(マタイ12:1~8)
これらのイエス様の言動は、当時、父なる神様の心を理解せず、律法で人々を抑圧していたパリサイ人、律法学者らに対して、その誤りを指摘し、人々を宗教支配から解放するために、なされたことでありました。しかし、その結果、宗教指導者らの憎悪と妬みを買い、ついにイエス様は十字架で処刑されてしまいました。言わば、イエス様の罪状は「濡れ衣」です。
「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。」(1ペテロ2:22)
けれども、イエス様は濡れ衣を「着せられた」のではありません。自ら進んで十字架の道を選び取られたのです。
「だれも、わたしからいのちを*取るのではありません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。」(ヨハネ10:18a *異本)
「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12:2b)
また、イエス様はご自分を憎む者たちと、争うことはなさいませんでした。それは、正しく審かれる父なる神に、すべてをお任せになっておられたからです。
「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」(1ペテロ2:23)
私たちが「不正を甘んじて受ける」「むしろだまされている」べき理由がここにあります。義の審判者なる神が、正しくお審きになるからです。
そして、イエス様は十字架の上で、ご自分を十字架につけた人々を赦されました。
「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』」(ルカ23:34a)
聖書は、何から何まで、唯々諾々、自分の主張を引っ込めろ、迎合しろ、と教えているわけではありません。否、むしろ、勇気を持って、正しく主張すべきは、せねばなりません。イエス様がなさったように、です。けれども、それがために、かえって恨みを買い、不当な扱いを受けることがあるかもしれません。そのときです。
「主のしもべが争ってはいけません」(2テモテ2:24a)
「赦せない」「不当だ」と争いたくなるそのときに、十字架の主イエス様を見上げようではありませんか。主は必ず正しい審きをなさいます。主の御手に委ねましょう。そして、憎しみを手放し、赦しましょう。イエス様がなさったように。
■A:考えてみよう
「不正を甘んじて受ける」「むしろだまされている」とは、今の私にとって、どういうことだろうか?
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 よしかず 】
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