■S:今日の聖書の言葉
申命記32章4節

★主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。

■O:今日のコラム
みなさんはボルダリングというスポーツを知っていますか?本当であれば間もなく開催された東京オリンピック2020でスポーツクライミングという競技で正式種目として選ばれたスポーツです。

都内でも雑居ビルの一角に専用の壁が設けられ、汗を流す人たちを見たことがあります。もっぱら、私が子どもの頃は裏山に巨大な岩の壁があったので、そこを登って遊んでいました。今考えたら、命綱もつけずに、そくあそこで遊んでいたなとぞっとします。

私たちの人生においても、目の前に切り立った崖のような大きな壁が現れることがあると思います。今日はその岩について見ていけたらと思います。

今日の聖書の個所で、「主は岩」ということばが出てきます。これは、神様=岩という使われ方においては初めて使われた個所になります。この申命記32章は「モーセの歌」と言われている個所で、モーセの生涯が閉じようとしたときに歌われたものです。そして、この1章の中でなんと8回も「岩」ということばが使われています。

ここで使われている「岩」というのは、「縛る、包囲する、封じ込める、窮屈にする」という意味があります。小さな石というよりは、大きな一枚岩のような岩です。モーセは神様をそのような「岩」と呼ばれました。

ではなぜ、神様が縛ったり、包囲したり、封じ込めたり、窮屈にしたりするのでしょうか。これは普通に考えるとネガティブにとらえられるかもしれませんが、実は考えられないほどの恵みなのです。

創世記で「エデンの園」ということばが出てきます。「エデン」とは「神様との関係の中にある喜び」、そして「園」とは「囲われたところ」という意味です。「岩」と同じような意味で、囲まれているところです。外から見ると窮屈に見えるかもしれませんが、そこには最上の喜びがあります。

エデンの園では、神と人とが何の隔たりもなく生活していたところです。しかし、人が神への不従順という罪を犯した結果、人と神の間に隔ての壁ができてしまい、エデンの園を追放されてしまいました。

その後、神様は何度も人と直接的な交わりをしたいと願い、様々な方法を試みてくださいます。そのうちの一つが荒野での幕屋です。この幕屋の特徴も、「岩」の要素があります。なぜなら、荒野の中に建てられた幕屋は囲われた場所だからです。外の世界と区別された場所です。神様のご臨在があらわされる場所、幕屋は囲われた場所の中心にありました。

その後、幕屋はダビデの幕屋を経て神殿となりますが、その神殿も壊されてしまいます。そして、神殿の本質が現れます。それがイエス様です。

「みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。」(1コリント10:4)

イエス様こそ救いの岩です。私たちを囲み、守ってくださる方です。この方と共にいるなら私たちの内にいつも喜びがあります。たとえ、外が嵐のような状況であっても私たちは守りと平安があります。イエス様とつながっていない人が見るなら、みことばを読んだり祈ったり礼拝することは窮屈に見えるかもしれませんが、私たちは知っています。それが地上で最も喜びの時間であることを。

ところが、イエス様は十字架の死と葬りと復活を経て、天に帰られます。私たちの「岩」はどうなるのでしょうか。現在、その岩とは教会です。

「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:18)

教会は「岩」の上、囲まれたところに建てられています。そのような教会は地獄の門も打ち勝つことができないところです。つまり、ぶどうの木とその枝のように、イエス様とつながっている必要があります。宗教ではなく、神様との生きた関係です。神様と人との人格と人格の交わりが大切です。

砂の上に建てられた家はひどい壊れ方をします。一方、岩の上に建てられている家はどんな風や雨、洪水が打ち付けてもびくともしません。主の御手によって囲われているからです。しかし、やがて教会が取り去られる時がきます。その時の岩は何になるのでしょうか。

それは「花嫁」です。なぜなら、聖書で花嫁とは「閉じられた庭」と表現されています。

「私の妹、花嫁は、閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉。」(雅歌4:12)

こうして、私たちはキリストと永遠に喜びの中、過ごすことになります。

聖書を岩、(囲われた)という視点で駆け抜けて見てきました。このことを思いめぐらすなら、私たちが生まれる前から、永遠に至るまで私たちは神の御手の囲いの中で生かされているんだということを実感します。

これは事実を超えた、みことばに書かれてある真理です。モーセは荒野の中で何度も死と隣り合わせになり、ピンチを迎えましたが、そのたびに主を呼び求め、人の目には不可能に思える状況から救い出されるのを見てきました。だからこそ、今日のみことばの宣言ができたのではないかと思います。私たちもこの神の約束に信頼しようではありませんか。

「主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。」(申命記32:4)

■A:考えてみよう
自分は今、岩の上に家を建てているだろうか。それとも砂の上に建てているだろうか。次のみことばを思いめぐらしてみてください。

「なぜ、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。
わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。
その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。
聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」(ルカの福音書6:46-49)

岩の上に建てられた家とは、地面を深く掘り下げなければなりません。なぜなら表面には砂があり、そこを深く掘らなければしっかりとした土台である岩に到達しないからです。これは目に見えない領域です。土台無しでも立派な家を建てることができるかもしれません。しかし、それは時が来るとひどい壊れ方をします。
このふたつの決定的な違いは何でしょうか。

・わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人たち=岩の上
・聞いても実行しない人=砂の上

地面を掘ることは地味な作業です。とても時間がかかります。誰からも評価されないことがほとんどでしょう。それでもあきらめないで、主に信頼して地面を掘り続ける人が岩に到達できます。

そのためにするべきことは何でしょうか。わたしのことば、すなわち、みことばを聞いてそれを行うことです。みことばに従うことはとても窮屈に感じます。しかし、それが囲いの中に入っていくことです。

「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネの福音書10:9)

この門は小さく、その道は狭く、見出すものはまれな門です。この門以外から入ってくるなら、その者は盗人であり強盗です。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。」(ヨハネ10:1)

どんなにテクノロジーが進化しても、AIが発展しても、それは救いには至りません。救いの岩はただイエス様だけです。マリアのように、このお方の前にひざをかがめ、ただイエス様の御声を聴くことに集中しましょう。

■P:祈り
今日も私を愛してくださる天のお父さん、あなたの愛をありがとうございます。私が生まれる前から私を守り、取り分けてくださっていたことを感謝します。主は「わたしは見放さず、あなたを見捨てない。」と約束してくださっています。このお方に信頼するなら、私たちはこの世にあっても守られることを感謝します。
主ご自身が私の四方を取り巻く火の城壁となって私を囲ってくださいます。主のみ使いも私の周りに陣を張り、私を助け出してくださいます。また、私の周りには多くの証人たちが雲のように取り巻いています。それゆえに、私の天幕は祝祭の都となり、安らかな住まい、すなわちエデンとなることを感謝します。
目の前の状況を恐れるのではなく、たましいを滅ぼすことも生かすことのできる救いの岩、主を恐れ生きていくことができますように。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しゅん 】

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