■S:今日の聖書の言葉
ローマ人への手紙2章1-4節
★ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。
私たちは、そのようなことを行っている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。
そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。
それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。
■O:今日のコラム
あっという間に世界中を巻き込んでしまったコロナウィルス。これにより多くの人が影響を受けました。今もなお感染したり、病と闘っておられたり、最前線で対応に追われたり、またお仕事で様々な痛手を負われている方がいらっしゃると思います。速やかに主の回復があることを祈ります。
この影響のため、たった数か月で世界は変わってしまいました。もはやマスクは当たり前、三密、ソーシャルディスタンス、うがい、手洗いなど、今まで徹底されていなかったことが徹底され始めています。(個人的には、この習慣が「風邪」にかかるリスクを下げてるのではないかと思います。コロナの置き土産ですね)
しかし一方で、「自粛警察」と呼ばれる人も出てきているというニュースを見ました。これはいったいどう人たちの事でしょうか。ウィキペディアで調べてみると、自粛警察とは「新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく緊急事態宣言に伴う行政による外出や営業などの自粛要請に応じない個人や商店などに対して、偏った正義感や嫉妬心、不安感などから私的に取り締まりや攻撃を行う一般市民やその行為・風潮を指す俗語」とあります。
彼らは良いことをしているのでしょうか。もちろんそうです。では、何が問題なのでしょうか。それは、少し乱暴な言葉になるかもしれませんが、自分の価値基準を人に押し付けることです。別の言葉でいえば、自分の価値基準で人を裁くということになります。
イエス様が弟子たちと共に地上で過ごした時代には律法学者、パリサイ人という人たちがいました。彼らもまた神の律法を熱心に調べ、守ることに心を傾けていました。しかし、イエス様は彼らを「まむしのすえたち」と厳しい言葉で責められます。彼らは熱心ではありましたが、神のみことばではなく、人の教えを守ることに熱心でありました。つまり、的外れの努力をしていた者たちでした。ですからイエス様は彼らを叱責されたのです。
さあ、今日のみことばを見てみましょう。
「すべて他人をさばく人」とありますが、これは「他人を罪に定める」という意味です。上に挙げた例のような人たちです。つづく「あなたは、他人をさばくことによって」というみことばは「他の人に対して審判者としてふるまう」とあります。
このみことばを思うめぐらすとき、次のところが思い浮かびました。
「ペテロは彼を見て、イエスに言った。『主よ。この人はどうですか。』イエスはペテロに言われた。『わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。』」(ヨハネの福音書 21:21-22)
ペテロがイエス様から三度の赦しをいただいた直後にペテロが言った言葉です。いかにもペテロらしいですね。しかし、イエス様はそのペテロに対して何と言われたでしょうか。
「わたしに従いなさい」です。言い換えるなら、「ヨハネはヨハネで背負う重荷があるので、あなたは彼の重荷に関与するより、自分自身のことを心配しなさい」と言われているのではないかと思います。
ヨブのように自分の正しさを主張し続けるのではなく、「私は間違っているかもしれない。正しいのは神様だけ」という考えをもって歩むなら、神様に喜ばれる人生を歩んでいけると信じます。それが神を恐れる歩みです。
■A:考えてみよう
私は自分の価値基準で物事を判断していないだろうか?
それを人に押し付けていないだろうか?
みことばを継続して読み続けているだろうか?
私たちは御国に属するものです。それであれば御国のルールを知る必要があります。知らないで交通ルールを違反してしまった場合、「知りませんでした」では済まされません。すべて免許取得の時に学んでいるはずです。同じように、イエス様の御前に立って「知りませんでした」と言いたいでしょうか。そんなことは絶対ないと思います。それであれば、御国のルールが書かれてある聖書を毎日読み続ける必要があります。
そして、そのルールを知ったのであれば、それを他人に適応する前に、自分自身に適応しましょう。みことばの剣は鋭いです。両刃の剣です。それは自分自身の中にある神様に属さない部分を切り分けるための武器です。
自分の課題と他人の課題を分離しましょう。自分の義をもって他人にそれを押し付けることを「おせっかい」と言います。もし、隣人の事が気になるのなら、まず何も言わないでとりなして祈りましょう。そうするなら大半は神様がその人を良い方向へと導いてくださいます。思ったことをすぐに口に出してしまうので、人間関係のトラブルが絶えないのです。
最後に、今日のみことばの最後の部分を思いめぐらしてみてください。
「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」(ローマ2:4)
これは、次のような意味です。「あなたは神の情けと寛容と強い忍耐との豊かなことを軽々しく取り扱うのですか。あなたは神がその情けをもってあなたを悔い改め、すなわち神の御心を受け入れるために心と内なる人を変えることに導こうとしておられる事実に無頓着なのですか。」という意味です。
私たちはイエス様の十字架により罪赦された者です。イエス様には到底返しきれないほどの負債を負っています。それなのに、いまだに隣人の小さなことを赦せない弱さを持っているのが私たちです。そのような私たちを、神様はすぐにでも滅ぼすこともできるにも関わらず、神様は忍耐して私たちを見守っていてくださいます。どうしてでしょうか。
それは、私たちの内なる人がキリストの似姿へと変えられるためです。人が変えられるのは時間がかかります。しかし、神様は私たちを憐れみ、情けをかけ、強い忍耐をもって今も変えられることを待っていてくださっています。一度神様を裏切ったにも関わらず、塵にもみたないこの私を神様は信頼してくださっているのです。この神様の慈愛を知って、みことばによってキリストの似姿へと変えられていきましょう。
■P:祈り
今日も私たちに情けをかけ、愛を注いでくださる天のお父さん、ありがとうございます。
私の中の自己義をみことばを通して明らかにしてください。自分では何が正しく何が間違っているかを判断することはできません。それを判断されるのは唯一神様だけです。
聖霊様が臨まれるなら、罪について、義について、裁きについて、世にその誤りを認めさせてくださるとみことばに書かれています。
イエス様を信じることを告白した私の内には確かに聖霊様が住んでくださっています。私たちがみことばを蓄えるなら、このお方がみことばを通して私たちに誤りを認めさせてくださいます。その結果、私たちの人生が滅びから永遠のいのちに変えられていきます。それこそが死からいのちへと歩みを変えるデュナミス(爆発的な)力であることを感謝します。
自分で自分を裁くことをせず、隣人も裁くことをせず、すべての裁きを神様にお委ねすることができるように私の考えを造り変えてください。
愛と忍耐をもって今日も私と共に歩んでくださるイエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
【 しゅん 】
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