■S:今日の聖書の言葉
マルコによる福音書9章23,24節
★するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
■O:今日のコラム
口を聞けなくする霊につかれた息子の父は、息子がその霊から解放され癒されることを願い、イエス様のもとに連れてきましたが、汚れた霊を追い出す権威を授けられた弟子たちには、追い出すことができませんでした。
そして、イエス様が来られた時、その父は、「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」と主の御力と主のご性質を疑う不信仰の思いがでてきました。しかし、その父に対してイエス様は、 「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と言われました。
「わたしにできるかどうかが問題ではない。わたしには十分に追い出すことができる、解放することができる、癒すことができる。わたしができるかどうかではなく、あなたがわたしに信頼するかどうかだ。あなたはわたしを信じるのか?あなたはわたしに信頼するのか?」と主は語っておられたのだと思います。
私たちも不信仰の思いを持つと 「主は本当に聞いてくれるのか」「主は与えてくれるのだろうか」「主は導いてくれるのだろうか」「主はしてくれるのだろうか」「主は答えてくれるのだろうか」「主は癒してくれるのだろうか」「主は解放してくださるのかどうか」「主は救ってくれるのだろうか」と、 主の御力や主のご性質に対して疑いや間違った思いを持ってしまうことがあります。
しかし、主がしてくださるかどうか、主にできるかどうかが問題ではなく、大事なことは私たちが「主に信頼するのかどうか」、「主と主の御言葉の約束を信じ続けるのかどうか」です。
その父にとっては息子が幼い時から大変な状況で、解放と癒しをずっと願ってきたからこそ、一度弟子たちに祈ってもらって解放されなかった、癒されなかったことを見て、「一度ダメだった。解放されなかった。癒されなかった。」という経験が、主に対しての不信仰の思いが出てきた原因だったかもしれません。
私たちもずっと祈ってきたこと、ずっと願ってきたことがまだ聞かれていないとき、主の御約束が経験できていないとき、願っていることや握っている御言葉と反対のことを経験してしまうとき、目に見えて実現していないとき、願っている癒しや救い、解放がまだないようなときに、主に対して不信仰の思いや疑いの思いが出てきそうになることがあるかもしれません。
しかし、そのような時こそ、その父が叫び声をあげて、「主よ、信じます。」と告白したように、「主よ、あなたに信頼します。主よ、あなたとあなたの御言葉の約束を信じ続けます。目に見える状況よりも、決して変わらないあなたのご性質とあなたの御力、そしてあなたの御言葉の約束を信じ、信頼します。」と告白し続ける者となりたいと願います。
■A:考えてみよう
私たちのうちに主に対する不信仰の思い、主の御力や主のご性質に対して疑いの思い、御言葉の約束に対する不信仰や疑いがあるでしょうか?
不信仰や疑いの思いがあるときにも、イエス様が口の聞けない霊につかれた息子の父に言ったように、主は私たちにも、「あなたはわたしに信頼するのか?あなたはわたしを信じるのか?」と優しく語ってくださっていることを感謝します。
そして、私たちの信仰の弱さや、疑いから打ち勝つことができるように、主はいつも私たちを助けてくださることを感謝します。
今一度、不信仰や疑いがある領域に関して、「主よ、私はあなたに信頼します。変わらないあなたのご性質と御力、あなたの御言葉に信頼します。目に見える状況や今経験していることではなく、あなたを信じ続けます。」と主の御前に告白しましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 ありさ 】
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