■S:今日の聖書の言葉
マルコの福音書8章22~25節

★彼らはベツサイダに着いた。すると人々が盲人を連れて来て、彼にさわってくださるよう、イエスに願った。
イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両目につばきをつけ、両手を彼に当てて「何か見えるか」と聞かれた。
すると彼は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と言った。
それから、イエスはもう一度彼の両目に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。

■O:今日のコラム
ここでイエス様は盲人の目を癒されます。二回もイエス様が祈る珍しいシーンであることは、私たちも一度祈って癒されなくても諦めてはならないことを思わされます。

そしてこの盲人に起こった奇跡は霊的に私たちにも起こることを信じます。私たちも霊的には「全てのものがはっきり見えるようになった」わけではないからです。しかし主は少しずつ私たちの顔の覆いを取り除けてくださって、もっとハッキリと見えるようにしてくださいます。

この盲人が最初「何か見えるか」と聞かれた時に、既に奇跡は起こっていました。しかし、まだ見えるのはぼんやりだったのです。ここで彼の目が何を見たのか?はとても興味深いものです。

そこには木のように見えて歩いている者がいたのでしょうか?目の前にはイエス様がおられたはずです。しかし彼の霊的な目が開かれ、十字架を負って歩くイエス様が見えたのではないでしょうか?聖書で十字架は木としか表現されないことが多いのです。

24節で「見えるようになって」という語は聖書のフットノートにもありますが「アナブレポー」という語で「見上げて」という意味です。見るだけなら「ブレポー」なのでわざわざマルコは見上げたことを強調しているのです。それは十字架のイエス・キリストを見上げるようになった、ということです。

そして25節でもイエス様は癒しを行われました。そして彼は「見つめた」とあります。何を見つめたのでしょうか?イエス様をです!ここの「見つめた」も実は「アナブレポー」が使われていて、イエス様を見上げたことを意味します。イエス様を見上げることは信仰者、礼拝者の姿です。

礼拝者、信仰者として歩む中で、全てのものがハッキリ見えるようになるのです。この御言葉が私を含め全ての人に成就しますように。

■A:考えてみよう
十字架を見上げる時間を持ちましょう。十字架とそこから流れる血潮には私たちを罪から分離させ、本来の目的のために生きることができるようにさせる力があるのです。その先にある礼拝の歩みの中にあって私たちは全てのものがハッキリ見えるようになることを信じます。

■P:祈り
主よ。私は知っていなければならないことさえも分かっていない盲目さを抱えていることを認めます。私の心の目を開いてください。十字架を通して注がれる恵みに今日もあずかります。全てのものがハッキリ見えるようになるという御言葉が私に成就しますように。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 まじまこ 】

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