■S:今日の聖書の言葉
詩篇21篇3節

★あなたは彼を迎えてすばらしい祝福を与え、彼のかしらに純金の冠を置かれます。

■O:今日のコラム
この箇所は、激しい戦いの末にイスラエルの民が勝利の喜びの声を上げている場面です。

私たちは誰でも敗北ではなく勝利を治めると嬉しいですよね。戦いに勝つと嬉しいという感情が湧き上がります。「ここまでがんばったからだ!自分は捨てたもんじゃない!みんなと一緒に戦ったから勝てたんだ!ここまで導いてくださった監督、先生のおかげで勝てたんだ!」そのような喜びが湧いてくると思います。

もちろんこの箇所も私たちと同じように喜んでいるのですが、私たちとは少し違った喜び方をしているようです。イスラエルの民は、「ダビデ王はすごい!」そのようにたたえているのですが、そのダビデは自分の活躍、自分の力、自分の知恵を誇示して、自分を見ているのではなく、ダビデは神様を見ているのです。すなわち、イスラエルの民たちは、神様を見ているダビデ王を見ているので、神様と王を見ているということになるのです。

ですからイスラエルの民たちは、王を支配されておられる神がおられるんだということを感じているんです。そのような状況の中でイスラエルの民たちは、明らかにこれは神の御業、助け、守りがあったと、神の救いを感じて歌ったのです。

「あなたは彼を迎えてすばらしい祝福を与え、彼のかしらに純金の冠を置かれます。」

神様は戦いを終えたダビデを迎え、その頭に純金の冠を置かれます。と書かれています。

聖書には、色々な冠が出てきます。冠は権威、支配、誉れ、栄えの象徴であり、「栄光と誉れの冠をかぶらせました。」(詩篇8:5)と書かれています。そして、私たちに用意されている冠には「朽ちない冠」(1コリ9:25)、「義の栄冠」(2テモテ4:8)、「誉れの冠」(ヘブル2:9)、「いのちの冠」(ヤコブ1:12)などがありますが、これらの冠が私たちに備えられていることを感謝します。

しかし、私たちのイエス様が十字架に架かられた時、その頭に置かれた冠はどのような冠だったでしょう。それは「いばらの冠」でした。イエス様は、御自身がのろわれて、われわれ罪人に祝福を約束されたのです。

そのようなイエス様が栄光の冠を携えて、信仰のレースを走り終えた私たちを待ち構えて迎えてくださるのです。私たちは、そのことを信じ、勇敢に戦い、走るべき道のりを走りぬこうではありませんか。

■A:考えてみよう
パウロはこう言っています。

「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」(2テモテ4:7,8)

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 てる 】

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