■S:今日の聖書の言葉
民数記27章5節
★そこでモーセは、彼女たちの訴えを、主の前に出した。
■O:今日のコラム
ここでモーセはツェロフハデの娘たちの訴えを主の御前に持って行きました。原語で見るなら「裁きを主に近づけた」です。裁きは主のものですから、私たちが主の正しい裁きを求めることは重要です。
モーセはツェロフハデの娘たちの言い分を聞いて、この訴えをどうすべきか?を悩みました。私たちの日常においても、人々からの訴えが起こり、人間関係のこじれること、簡単に結論を出しかねることが起こってきます。そんな時に自分の感情や感覚がジャッジするとあまり良くありません。
祈りをもって、御言葉は何と言っているのか?御霊はどこに導いていて、心に主の平安のある答えは何であるのか?を主に聞くことは大切なことです。時には自分の感情は「辛いなぁ」というジャッジに主が導かれることもあります。
自分から神の裁きを求め、神に近づいていく心を持ち始めると、私たちの心は砕かれていきます。自分の中に隠している罪があれば、主は恐るべき存在であるからです。
「私のたましいは、いつもあなたのさばきを慕い、砕かれています。」(詩篇119:20)
そんな私たちが大胆に神の御前に裁きを求めて近づくことができるただ一つの道は、イエス様の十字架の恵みにあずかることです。私たちの、とても人には見せられない恥のような罪を正直にあるがままにイエス様に持っていくなら、私たちの恥は覆われ、心の闇に光が照らされるのです。
主に信頼する者は恥を見ることがないのです。主に信頼する者は失望させられることがない、という御言葉は、原語では「恥を見ることがない」という意味の語なのです。
アダムとエバが罪を犯して、最初にやってきた今までと違う感覚は、恥だったのです。それをイチジクの葉で覆い隠そうとしました。でもそんなもので恥を隠せるのでしょうか?私たちの恥を覆ってくださるのは、イエス様の血潮以外にはないのです。
私たちの生まれつきの性質には恥を隠そうする性質があることを覚える必要があります。しかし正直に告白するなら、主は覆ってくださって恥を見させないのです。
そのように主に覆われて、主の中で私たちは新しくされていくのです。贖いとはルツがボアズに「このはしためを覆ってください」と言ったように主に覆われて主のカバーリングに入り、主の所有となり、花嫁となることです。
「彼は言った。『あなたはだれか。』彼女は答えた。『私はあなたのはしためルツです。あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください。あなたは買い戻しの権利のある親類ですから。』」(ルツ3:9)
主の正しい裁きを求める信仰は、ルカ18章でイエス様が「人の子が来たとき、果たして地上に(その)信仰が見られるでしょうか?」と語られた、裁きを求めるやもめの信仰です。主の正しい裁きを求める聖徒たちの祈りに応えて、終わりの日に裁き主として主はこの地に再び来られるのです。
■A:考えてみよう
判断の難しい状況で、主の正しい裁きを求める習慣をつけましょう。そのためには自分の中の闇を全て光の中に持っていく習慣をつけることがセットです。あるがままに正直に告白し、恥を覆っていただくのです。
■P:祈り
主に信頼する者は恥を見ることがないことを感謝いたします。キリストの血を受け、大胆にまことの聖所に入っていきます。へり下り、心砕かれて私はあなたの正しい裁きを求めます。私に悪があるならば、どうぞお取り扱いください。あなたの裁きを待ち望みます。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 まじまこ 】
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