■S:今日の聖書の言葉
ヤコブの手紙1章2〜4節
★私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。
■O:今日のコラム
ヤコブの手紙は、すでにイエス・キリストを信じ、成熟した信仰者になるための知恵の書簡です。ここには、信仰者としてどのような歩みをするべきか実践的なことが多く書かれています。
ヤコブ1章で最も重要なことは、2節の「さまざまな試練に会うとき、それをこの上もない喜びとする」ことです。なぜなら、3節にあるように「信仰がためされる」からです。
どうして信仰がためされることが喜びになるのでしょうか?
それは試練を通して信仰が明らかにされ、主に近づくことができるからです。詩篇50篇15節には、「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」という御言葉があります。どのような苦難であったとしても、その根幹には主の御心があり、「わたしを呼び求めよ」と主は私たちに語っておられます。
しかし、試練の中で主を見上げるのは簡単ではありません。私たちは目の前の現実、問題、また自分自身ばかりに目を向けてしまいます。私自身がこれを体験したのは、去年11〜12月にかけてのことです。
仕事で大きなトラブルがあり、私は約1ヶ月以上そのことに掛り切りでした。トラブルを解決しようと朝から晩まで必死に働きました。それでも解決せず、むしろ起きていても寝ていても、絶えず仕事のことで思い煩うようになったのです。自分の力に頼る時、心はそれに支配され、すべての領域において疲れ切ってしまいました。その時、主は礼拝を通して御言葉を語ってくださったのです。
「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」(ミカ6:8)
この御言葉が語られた時、私は悔い改めへと導かれました。主は試練を通して、私が何に依り頼んでいるかを明らかにしてくださったのです。私は主の御力に信頼するのではなく、自分の力に依り頼んでいました。それはまさに高慢です。そのことを悟らされ、悔い改めて主を見上げるようになりました。そして、試練を通して信仰がためされ、神と共に歩むように導かれたことを心から感謝するようになったのです。
サタンは時に試練を与えないことを通して、私たちが主と共に歩まないようにさせます。クリスチャン映画「神は死んだのか」には次のようなセリフがあります。
「時に悪魔は、人々が神に立ち返らないように、人々が試練のない人生を送ることを許します。 それは扉が開いている刑務所のようなものです。ただ試練がないので、すべてが素晴らしくて快適であり、去る理由がありません。そして、ある日突然扉が閉まり、外に出ることができなくなります。」
試練こそ、この上もない喜びです。試練こそ、私たちの目を覚まし、御言葉に立ち返らせます。試練こそ、神と共に人生を歩む時です。
■A:考えてみよう
・試練の時、主を呼び求めていますでしょうか?
・試練の中で、主と共に歩んでいますでしょうか?
・試練を、この上もない喜びとしていますでしょうか?
■P:祈り
今、試練の中を歩んでいることを心から感謝し、喜びます。なぜなら、主を呼び求め、あなたと共に歩むことができるからです。もし試練がなければ、私はあなたから離れてしまう弱い存在であることを認めます。
そして、今日も主に依り頼み、主に信頼します。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 あさひ 】
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