■S:今日の聖書の言葉
レビ記21章6章
★彼らは自分の神に対して聖でなければならない。また自分の神の名を汚してはならない。彼らは、主への火によるささげもの、彼らの神のパンをささげるからである。彼らは聖でなければならない。
■O:今日のコラム
シャバットシャローム!
祭司たち、一族の主人たち、大祭司たちへの規定が書かれているレビ記21章ですが、とんでもなく高い規定が書かれています。いかなる人が死んでも弔うことも悲しむこともできないと。人道的に見るなら神様はなんて無慈悲な方なのだ!と思えてくるような規定です。
いったいなぜでしょうか?この章をみると答えを見つけることができます。
「わたしが聖だからである。」
それに加えてもう一つ言っていることは、
「神のパンを献げるからである。」
面白いですね。神様が聖であるから、というので聖となることは正当な理由でありますが、それに加えて神のパンを献げるために聖でなければならないとはどういうことなのでしょうか?
主に献げるパンにも規定があります。そしてそれはパン種が入ってはいないということです。
「あなたがたが主に献げる穀物のささげ物はみな、パン種を入れて作ってはならない。パン種や蜜は、少しであっても、主への食物のささげ物として焼いて煙にしてはならない。」(レビ記2:11)
主へのパンとは何なのでしょうか?パウロはこれらを「異邦人」に置き換えて説明しています。
「それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」(ローマ15:16)
私たちが神のパンだったのか!!
そうです。私たちはパン種が入っていない、主に献げられるべき供え物のパンと言われています。
もう一つ私たちが供えのパンであることは、別の箇所でパウロが言っています。パウロは5章の初めに異邦人に向けて手紙を書いていることがわかります。
「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越しの小羊キリストが、すでにほふられたからです。」(第一コリント5:7)
ここまでは私たちが神に捧げられるパンであることがわかりました。ですので、私たちは「私たちを受け入れてもらうように」聖でなければならないのです。私たちは現代において王であり祭司であるからです。
神に受け入れられるささげものは、まぎれもなく聖でなければならないからです。
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)
私たちは異邦人ですが、主にささげられる霊的ささげものを帯びています。こんなに感謝なことがあるでしょうか。そのために聖められることを喜びとしましょう。
■A:考えてみよう
「ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。」(第一コリント5:8)
聖められるとは実際どのようなことか?
パン種の入らないパンとはどのようなものか?
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 あはごん 】
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