■S:今日の聖書の言葉
ルカによる福音書24章45,46節
★そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
■O:今日のコラム
復活のイエス様をほめたたえます。受難週を経て、イエス様は死を打ち破りよみがえられました。信じる私たちも、十字架を通してイエス様とともに死に、復活の恵みに預かることを感謝します。
「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」(ローマ6:5)
イエス様は復活された時に、誰もが一目で「このお方こそ救い主だ!」と分かるように、光り輝く栄光の姿で現れ、復活を示しても良かったのですが、そうはなさいませんでした。
イエス様が復活された時、明け方早くに墓に向かった女たちは、イエス様の体がないので途方にくれていました。しかし、御使いが現れイエス様の復活を示した時、女たちは次の御言葉の節を区切りとして様子が一変しました。
「女たちはイエスのみことばを思い出した。」(ルカ24:8)
また、エルサレムから離れ、エマオに向かうニ人の弟子にイエス様が現れた時、ニ人の目はさえぎられていて、イエス様だと分かりませんでした。
そこでイエス様がされたことは、聖書全体を通してご自分について書いてある事がらを解き明かされた、ということでした。
「それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」(ルカ24:27)
この二つの出来事を通して分かることは、イエス様の復活は「御言葉」を通して人々のうちに示された、ということです。
今日の御言葉の箇所でも、イエス様は十一使徒とその仲間たちに「聖書を悟らせるために彼らの心を開き」「聖書になんと書いてあるのか」を教え、ご自身の復活と後の約束を示されました。
今この時代に生きている私たちは、2000年前の弟子たちのように、イエス様の体や手足の傷を、肉の目で見たり、触れることはできないけれども、復活の主を信じる恵みに預かっています。
「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」(1ペテロ1:8)
肉体を持ったイエス様が目の前に現れても、心の目が開かれなければイエス様だと分からなかった、という事実が聖書に記されているのであれば、今、私たちに完全な形で与えられている聖書は、日々イエス様と出会うためにどれほどに大切なものなのでしょうか。
復活の主と本当に出会うということは、2000年前も今も同じ方法なのです。御言葉を通して私たちは復活のイエス様と毎日お会いすることができます。ただ一つ、心から願うことは、今日という日に私の「心の目がはっきり見えるようになる」ことです。
弟子たちが御言葉を思い起こして、復活のイエス様に対する確信と喜びを抱いたように、聖書全体がイエス様について語っていますから、私たちもイエス様を飢え渇き求め、聖書全体を愛するものとされますように。日々の生活の中で聖霊様と共に歩み、御言葉を思い巡らし歩むものとされますように。
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)
そして御言葉を通して、死と葬りと復活の贖いを成し遂げられた私たちの救い主、イエス様ご自身と、毎日の生活の中で出会うことができますように。
■A:考えてみよう
下記の御言葉を朗読し、黙想しましょう。御言葉に基づいた信仰が、今日一日、私たちの心と思いを満たしますように。
「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」(エペソ1:17-19)
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 こばあい 】
オンライン献金はこちらから。
大きな額の献金は手数料の少ない口座振り込みをお勧めいたします。