■S:今日の聖書の言葉
レビ記18章24b~25節

★わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国々は、これらのすべてのことによって汚れており、このように、その地も汚れており、それゆえ、わたしはその地の咎を罰するので、その地は、住民を吐き出すことになるからである。

■O:今日のコラム
レビ記18章から三つのメッセージを受け取りたいと思います。

(1)主のなさる事には必ず意図がある

主は無目的に事をなさる方ではありません。今朝の箇所にはきわめて重要なことが記されています。カナンの地がなぜイスラエルの民に与えられたのか?カナンの先住民がなぜ聖絶させられねばならなかったのか?その理由が書かれてあるのです。

主はヨシュアに「この町と町の中のすべてのものを、主のために聖絶しなさい」と命じました。(ヨシュア6:17a)

「聖絶」と聞くと、現代に生きる私たちは「先住民が可哀想」と思いがちです。しかし、彼らが滅ぼされたには、それ相応の理由があることが今朝の御言葉からわかります。すなわち、レビ記18章1~23節には、口にするのもはばかられるほどの、おぞましい近親相姦、同性愛、獣姦のさまが延々と記されており、これらの淫行がカナンの地で横行していた、とあります。そして極めつけは21節、子どもを火に焼いて偶像へのいけにえとして献げていたのです。これらの罪のゆえに神の審きが下りました。

全地を統べ治めたもう主は、計り知れない深い意図をもって事をなしておられます。無目的ではありません。私たち個々人の人生において、また人類全体においても「どうしてこんなことが、、、」と嘆き、涙するときがあるかも知れません。しかし、何が起ころうとも、ひたすら主を信頼し続けましょう。主は、ひとり子イエス・キリストを与えるほどにこの世を、私たちを、愛して下さいました。主はどこまでも良いお方です。

(2)主は公義を愛されるお方

カナンの先住民は、その悪しき行いのゆえに滅ぼされました。ではイスラエルは「選びの民」だったからカナンに入れたのでしょうか、、、?いいえ、イスラエルの民であっても、主が忌み嫌うことを行うならば滅ぼされる、とあります(レビ18:29)。つまり、イスラエルが「選びの民」というのは、律法を与えられた民(すなわち父がご自分の心を分かち合われた民)という意味での選びであって、「何をやっても許される特権階級」ということではありません。

「主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」 (ミカ6:8)

主は公義を愛されるお方です。つまりフェアなお方、えこひいきなさらないお方です。天の父の、このご性質を理解することはきわめて重要です。

私たちの人間的な宗教観では「クリスチャンだから、救われているから(自動的に)守られる、良いことがある」と思いたい、、、。しかしそうではありません。父はそれはお嫌いなのです。父の心(すなわち御言葉)を知って、その御心に従って歩んでほしい、これが父の願いです。父の心を知っていながら、そむくとすれば、もっとひどく父を悲しませることになります(ルカ12:47,48)。救われた私たちだからこそ、父を愛して、父の願いを行うよう努めてゆこうではありませんか!

さらに感謝すべきことは、神は公義を愛されるゆえに、正しい者を悪人と共に滅ぼすことはなさいません。エリコ(カナンの町)は滅ぼされましたが、遊女ラハブとその家の中にいた家族は皆救われました(ヨシュア2:17~19、6:22~25)。この出来事は「過ぎ越し」の型であり予表です。すなわち出エジプトの時に行われた最初の過ぎ越しの祭りが、のちに来られる神の小羊、御子イエス・キリストの贖いの予表であったのと同様です。

ラハブの家の窓に結ばれたしるしは「赤いひも」でした。これは贖いの血を表しています。この血が塗られた家は、死の使いが過ぎ越して行くのです。私たちはイエス・キリストが十字架の上で流された血潮で贖われた者です。たとい全世界が滅びに向かおうとも恐れることはありません。平安を保ちましょう。その生き様が証しとなります。そしてこの救いの中に世の人々を招くのです。

(3)欲と罪と死の関係について

今朝の箇所を読んで、カナンの民を「なんてひどい民族だ。これじゃ滅ぼされても当然だ。でも私は違う」と思うでしょうか、、、?しかし「自分とは関係ない」と思った時点で、御言葉は私にとって何の教訓にもならなくなります。そうではなく「私だって一歩間違えば、そうなっていたかもしれない」とへりくだるときに、御言葉は私にとって命に至る道となります。

「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」(ヤコブ1:15)

カナンの民も初めからあそこまでひどい淫行に至ったのではないでしょう。しかし、欲をむさぼった結果、ついにあのような性的倒錯に陥り、狂った社会となって滅びました。

ヤコブ1章15節によれば、欲と罪と死は区別されています。ですから(性欲も含め)欲それ自体が罪なのではありません。しかし欲をむさぼると、際限なくエスカレートしてゆき、罪に至り、死に至るのです。この警告を日々自分自身に覚えましょう。

その一方で、欲を否定する生き方(いわゆる禁欲主義)も間違っています。聖書はそれを「悪霊の教え」だと言っています。(コロサイ2:20~23、1テモテ4:1~3)

私たちは、肉の欲に振り回される生き方ではなく、禁欲主義でもなく、日ごとに御霊に導かれて進みましょう!

■A:考えてみよう
カナンの先住民が滅ぼされ、イスラエルの民が植えられた記事から、私自身の生き方を省みてみよう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 よしかず 】

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