■S:今日の聖書の言葉
出エジプト記25章1節
★わたしに奉納物をささげるように、イスラエル人に告げよ。すべて、心から進んでささげる人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。
■O:今日のコラム
シャバットシャローム!
やる気のない人よりやる気のある人と一緒にいるほうが楽しいですよね。いやいやながらする人より、積極的な人といる方が心地良いものです。
主も同じです!主が求めておられるのは、私たちがいやいやながら強いられて捧げるものではなく、心から進んでささげる人を喜んでおられることがわかります。
奉納物で捧げることのできる品は決まっていましたが、それぞれに対してのグラムや枚数などは特に書かれていません。それぞれが心から進んでささげるものを主が受け取られるということです。どんなに少ない金、銀でも心から進んで捧げるなら、主は受け取ってくださるのです。逆に言うならばどんなにたくさんのじゅごんの皮を捧げても!心から進んで捧げないのであれば、主は受け取ってくださらないことがわかります。
なぜならば、心から進んで捧げるものが『聖所』を造るからです。
「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む」(出エジプト24:8)
主が望んでおられるのは何ですか?
「たとい私がささげても、まことにいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにへは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:16,17)
私が望んでおられるのは、全焼のいけにえだけではないのです。私たちの心からの礼拝。心のあり方まで見られるお方です。強いてはそれが、主への捧げものであることがわかります。
なぜ、喜んで捧げることができないのか?この問いはいつも自分に必要な問いです。なぜ喜んで捧げることができないのだろうか?
ダビデの人生からヒントをみるなら、一つは、私たちの「罪」「罪過」ゆえであることが言えるでしょう。詩篇の51篇でもダビデが回復して欲しいと願っているものがあります。それが、
「喜んで仕える霊」
です。過ちを冒した後、ダビデには主に対して喜んで、素直に主に仕えることが困難となりました。聖霊様を悲しませたからです。
喜んで心から主にお会いできるのは、喜んで仕える聖霊様がおられるからです。私たちが主に捧げることができないのは、あるいは仕えることができないのは、私たちの中にある罪あるゆえであることがわかります。聖霊様を悲しませると喜んで行うことができません。
■A:考えてみよう
ダビデは何をもってきよめてくださいと願いましたか?
ヒソプは血をふりかける時やかもいに塗る時につかわれる枝です。ダビデは血をもってきよめてくださいと願いました。力ある血潮、完全な血潮。イエス様の血潮が私たちに与えられていることを感謝しましょう。
〈12の血潮の宣言〉
6.イエス様の血潮はすべての罪から私たちをきよめます
9.イエス様の血潮は死んだ行いから私の良心をきよめ、生ける神に仕えることができるようにされました
喜んで仕える霊、心から進んで捧げる心が回復しますように。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 あはごん 】
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