■S:今日の聖書の言葉
出エジプト記21章5~6節

★しかし、もし、その奴隷が、『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません』と、はっきり言うなら、
その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。

■O:今日のコラム
「奴隷」と聞くと、皆さんはどの様なものを思い浮かべるでしょうか?私はやはり、イスラエルの民がエジプトの苦役にあっていた姿が思い浮かびます。

苦役に押しつぶされ、「この苦しみから逃れたい!助けてください!」とイスラエルの民が叫んだゆえに、主が民を出エジプトさせてくださいました。けれども、この「奴隷」のイメージを持って今日のみことばを見ると、どうにも不思議に見えます。この奴隷は「自由の身となって去りたくありません。」と言っているのです。

新約聖書には2種類の奴隷が出てきます。それは罪の奴隷と義の奴隷です。

「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」(ローマ6:17,18)

罪の奴隷の状態とは、まさにエジプトで苦役にあっていたイスラエルの奴隷生活のようなものでしょう。希望もなく、鎖につながれ、ひもじく、惨めな状態です。一刻も早く、そこから逃れたいと願うような状態です。

では、義の奴隷、神の奴隷とはどのようなものでしょうか。

「奴隷」という表現に引っ張られますが、実は義の奴隷生活にこそ自由があり、良きものが満ちていて、安全なのです。神の奴隷となった者は、罪を犯し続けるという生活から、つまり罪の支配から自由にされました。

「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。
その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。
それらのものの行き着く所は死です。
しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:20~23)

罪の奴隷が報酬として得るものは死であるのに対し、義の奴隷は報酬としていのちをいただきます。罪の奴隷の行き着くところは永遠の死であるのに対し、義の奴隷、神の奴隷の行き着く所は永遠のいのちなのです!

そもそも、「奴隷」ということ自体が束縛ではないのか?と思われるかも知れません。誰の指図も受けず、自分勝手に生きることが自由だと考えがちですが、そうではありません。

「あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。」(ローマ8:16b)

このように、私たちは常に何かしらに自分の身を捧げ、何かに従って生きているのです。

私たちが自分のやりたいようにしている時は、実は自分の内にある肉の性質、つまり罪に従って生きていることになるのです。

今日の箇所に出てくる奴隷は「自由の身となって去りたくありません。」と言っています。なぜでしょうか?この奴隷はこの主人に仕えることを通して、良きものが与えられました(ここでは妻と子ども)。彼の主人は素晴らしい方で、他のどこへ行って他のどの主人の奴隷となることよりも、ここにとどまることが自分にとって幸いであると、このしもべは悟ったのです。

義の奴隷となった私たちは「義」に対しての奴隷であります。神の御前で正しく歩むこと、きよさを愛することに従い、仕えていく身分であります。けれども、その奴隷生活は決して窮屈なものではなく、喜びと自由に満ちた生活で、「ここにとどまりたいです!もう他の何かの奴隷にはなりたくありません!」と声を大にして言いたくなる状態なのです。

もうすぐ過ぎ越しの祭りがやってきます。アテフ師の「内なる人」の中にも書かれていますが、初代教会は毎年その祭りごとに注がれる主の恵みを待ち望みました。私たちも、今年の過ぎ越しの祭りの際に、主が新しく注いでくださる恵みを期待して、共に待ち望みたいと願います。

出エジプトの前に、イスラエルの民が苦役に耐えることが出来ずに天に助けを叫び求めたように、もしかしたら、この季節に自分自身の解放されていない領域、罪の支配の中から抜け出せずに弱さを覚える領域を、主が見せてくださるかも知れません。それは、怒りの支配、誰かを赦すことが出来ない思いの支配かも知れません。金銭的なことに捕われる状態、お金の支配かも知れません。呪い、思い煩い、不安、恐れ、プライド、自己中心、肉欲、何かの中毒…etc

もし、そのような、罪の支配を感じる領域があるのであれば、私たちは大胆に主の助けを叫び求めていきましょう。そして、神の支配の中に移されたのであれば、命さえも投げ出して私たちを贖ってくださった主イエス・キリストのご支配の中、主の愛の中にとどまり、主に忠誠を尽くして歩んで行かれたらと願います。

■A:考えてみよう
自分を支配しているものは何だろう。自分は日々の歩みの中で、義の奴隷としての自由を体験しているだろうか?
それとも、罪の奴隷としての不自由さを感じているだろうか?

■P:祈り
イエス様、あなたの十字架の贖いを感謝します。暗闇の支配から、私を驚くべき光のご支配のもとへと移してくださった主を褒め称えます!
しかしながら、今だに罪に従っている自分の弱さを覚えます。自分のやりたくないことをやってしまう、弱さを覚えます。愛する主よ、どうぞ私を支配する「罪」という偽りの主人に対抗する力を与えてください。罪の束縛から、完全にあなたの恵みの支配の中へと移されたいと願います。御霊の助けが必要です。
今日も、主よ、あなたを呼び求めます。今年も、あらゆる罪の支配から出エジプトし、さらに高い自由へと導かれることに期待します!

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 みちる 】

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