■S:今日の聖書の言葉
ヘブル人への手紙5章7~10節

★キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。
キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、
完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、
神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。

■O:今日のコラム
みなさんはイエス様に対してどのような印象を持っていますか?

イエス様は100%であられるお方です。しかし同時に100%人でもあられました。神様は何でもできるお方です。そのようなお方が、ご自分の創造された被造物の形をとってこの地に来てくださいました。イエス様にとって、どれほど不自由な地上での歩みだったでしょうか。

イエス様はまた、ただお一人、地上で罪なく歩まれました。私たちはそのようなお方だからイエス様は十字架にかかることはそんなに難しくなかったのではないかと考えるかもしれません。しかし、今日のみことばにはイエス様のゲツセマネ(油絞りという意)の丘での生々しい祈りの姿が描かれています。

イエス様はこの地上から、天の父に向かって大きな叫び声と涙をもって祈りと願いを捧げられました。その苦しさは、血の汗を流されるほど切実であり、壮絶な叫びと祈りでした。それは、単にご自分のいのちに関することではなく、あらゆる時代のイエス様を信じる全人類が罪から解放されるための祈りでした。

その祈りは父の心でした。敬虔とは、言っていることと行っていることが一致していることです。イエス様は天の父が言われることだけをこの地で話され、完全に父のみこころを成し遂げられました。その敬虔のゆえに、祈りと嘆願が聞かれました。

私たちはそれほど切実な祈りを捧げているでしょうか。その祈りは自分が幸せになるため、良い暮らしをするため、より贅沢な人生を送るための祈りになっていないでしょうか。

祈りの中心は自分ではなくイエス様です。弟子は師の姿に習うものです。イエス様の愛を受け、切実な祈りを捧げてみようではありませんか。

また、イエス様は神様ですので苦しみを受けなくてもいいお方でした。みなさん、イエス様はイスカリオテのユダに裏切られたあと、人に捕まえられたと思っていませんか?それは間違いです。イエス様は自ら進み出て、自ら十字架にかかられ、自らご自分の霊・たましい・肉を分離されました。まだイエス様を知らない方がこのことを知るなら、愚かさしか見えないでしょう。そうです。イエス様こそ最も愚かで貧しい王の王なるお方です。

神であられるお方が、なぜ、これほどの苦しみを受けられたのでしょうか。今日のみことばによると、その目的は「従順を学ぶため」と書かれています。

イエス様が学ばれる必要があったのでしょうか。イエス様はご自分からこの地に来られたのではなく、父から遣わされました。その地上での使命を全うされたのは苦しみを通した従順です。

まとめると、イエス様は必死に祈り、願われ、そしてそれを実行されました。そして、完全な者にされました。その結果、イエス様に従う、とこしえの救いを与えるお方となられました。

「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23a)

罪は私たちにまつわりつき、永遠の死へと導いて行きます。しかし、御子に聞き従う者には永遠のいのちがあります。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)

ここから何がわかるでしょうか。神であられるイエス様ですら、従順を学び、完全に成熟した完成に向かわれるには苦しみを経なければならないということです。そして、忍耐する力です。

「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」(ヘブル10:36)

個人的な話になってしまいますが、先日、心から敬愛している同居していた父を天に見送りました。私が人生で初めて経験した、人のいのちが主の元へと導かれる瞬間でした。白血病で3年半苦しみ、最期は在宅医療を受け、家族全員で共に戦いました。その最期は、妻が主によって夜中に起こされ、その後私を呼び、夫婦で義父の手を取り、主に賛美を捧げ、祈る特別な時間でした。

段々と義父の呼吸の間隔があき、意識も朦朧とする中、私たち夫婦が「イエス様によろしくね!」と叫ぶと、「ああ!」と、やっとの思いで、ひとことだけ叫び、そのままイエス様の所に旅立ちました。あっと言う間の出来事でした。今は永遠の世界で最高の時を過ごしていることを考えると少しうらやましくも感じてしまいます。(もうすぐ私たちもそこにいけますが)

義父は教会に仕え、また返せない人に生涯を通して与え続けた人でした。言ったことを実行する敬虔な人でした。彼はイエス様の弟子としての生き方を、人生を通して私に教えてくれました。このような素晴らしい人と一緒に暮らせたことに対して、本当に感謝が尽きないです。

オパ(義父のあだ名です)。どうか、苦しみから解放された今、イエス様のそばで永遠の楽しみを味わってくださいね。

■A:考えてみよう
私たちの地上での人生には終わりがあります。それはいつか必ずやってきます。今日、私たちはその最期を意識して生きているだろうか。

今日は偶然生きているのではありません。なんとなく生きているのではありません。主からの使命を受け、目的を持って生かされています。自分の人生について、自分の最期、どのような最期を迎えたいかを立ち止まって考えてみましょう。

あなたが地上で生涯を終えた時、あなたの葬儀に来た人にどのようなことを言ってほしいですか?その参列者のことばの通り、生きていますか?天の父からの使命をはっきりと受け取り、その使命を全うするため、知恵も力も経済も時間も、あらゆるものを主に捧げて生きていますか?

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:39)

イエス様こそただ一人の完全なお方です。みことばを通してイエス様の生き方を知り、その通りに生活できるよう、祈り、忍耐し、従順を学び、完全な者とされていきましょう。

■P:祈り
愛する天のお父さん、今日、生かされていることを感謝します。生きるのも主のため、死ぬのも主のためです。主よ、この身もたましいも、全部あなたのものです。
どうか、まもなく私たちを迎えに来てくださるイエス様にすべてを捧げて生きていくことができますように。どうか、生ぬるさから私を目覚めさせてください。今こそ、主は聖徒たちの祈りを必要とされています。この世のものを捨て、完全なお方、イエス様だけを目標として、最後まで走り続けることができますように。

イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

【 しゅん 】

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