■S:今日の聖書の言葉
マタイによる福音書23章25~28節

★わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。
目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。
わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。
そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。

■O:今日のコラム
主は偽善を厳しく戒められます。偽善とは仮面をかぶって演じている役者という意味の語です。28節にもあるように「外側が人に正しく見える」ことを「内側がどうあるか?」ということ以上に大きく見る者を偽善者と言うことができるでしょう。外側だけを立派にしても内側が汚れているということがあり得るのです。

律法学者やパリサイ人たちは、律法を守ることに熱心でした。が、しかし律法違反にならずにどれだけ自分の肉を満たすことができるのか?を追求しているような守り方であったと聞きます。

私には妻がいますが、どれだけ妻を怒らせずに自分のしたい事をするか?が自分のテーマではありません。そうではなく、妻を喜ばせてあげたいという純粋な思いを大切にします。街でモンブランを見ると、「妻が喜ぶだろうなあ」と思うと買っていって喜ばせてあげたいという衝動に駆られます。別に買わなくても怒られることは無いですが。

私たちが神に仕えることも同じようにどこまでは神の許容範囲なのか?そのギリギリまで自分の肉を喜ばせたい、という生き方ではなく。純粋に神を愛し、神をお喜ばせする生き方を捧げたいという思いに突き動かされることは重要です。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)

私たちの心を見張り、心の中に湧いてくる神が喜ばれない物、神を愛さない心を見出す度にイエス様の十字架により頼みましょう。十字架だけが私たちの罪に解決を持っているのです。

■A:考えてみよう
愛によって働く信仰が私たちの原動力となるように、自分の心を見張りましょう。礼拝生活がマンネリにおちいるとき、礼拝を捨てるのではなく、喜びのない心を十字架に明け渡して正直に告白しましょう。

また、恐れによって愛を追い出してしまうのではなく、むしろ知恵と判断力をもって愛を具体的な形としてあらわすことを大切にしましょう。全き愛は恐れを締め出します!

■P:祈り
イエス様の血潮は、死んだ行いから私の良心をきよめ、生ける神に仕えることができるようにしてくださいました。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 まじまこ 】

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