■S:今日の聖書の言葉
マタイによる福音書22章11節
★ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。
■O:今日のコラム
マタイ22章はたとえ話しから始まりますが、朗読する中で11節に目がとまりました。
婚礼に招かれた者たちの中で、ある人を見た王はその人を縛って暗やみに放り出すよう命令します。なぜその人はそのようにされてしまったのでしょうか。それは書いてある通り「礼服」を着ていなかったからです。
この箇所を握りながら祈っている中で、ちょうど婚礼について書かれている次の御言葉が示されました。
「また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。『ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。 花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。』」(黙示録19:6~8)
花嫁である聖徒たちは、その婚姻のときに麻布を着ていなければなりませんが、その麻布である聖徒たちの「正しい行い」をギリシャ語で調べたところ、次の御言葉で使われていました。
「こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。 」(ローマ5:18)
このひとりの「義の行為」(ギリシャ語ではディカイオマ)が黙示録19:8の「正しい行い」です。
ローマ5:18には「ひとりの義の行為」と書かれていますが、これは誰でもなくイエスキリストの義の行為、すなわち十字架の上で死なれ、人々に命を与えた行いを示していると思います。
そしてその義の行為こそが私たち花嫁が愛するイエス様との婚姻のときに着ているべき衣です。すなわち自分の正しさという衣ではなく、イエスキリストという義を着なければなりません。
「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」(創世記3:7)
アダムとエバは自分たちの方法で自らの裸を覆おうとしましたが、それは自己義であり、また真理を知らない状態です。これは私自身がその者であることを認めます。
私たちは私たちの方法や頑張りでは決して義と認められません。しかしイエスキリストを着る、つまり、イエス様のように自分自身に死んで、真理を聖霊様にあって悟り、それに生きるときにこそ私たちは「礼服」を着る者であることを覚えます。
「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。 」(コロサイ3:9,10)
■A:考えてみよう
私たちが着るべき礼服は何だろうか。
自分で作った礼服を着ていないだろうか。
普段の歩みの中で自分に死ぬことを選べているだろうか。
■P:祈り
愛するイエス様、あなたの愛と恵みを感謝します。あなたとの婚姻のときに自分自身の義の衣ではなく、あなたが与えてくださる義、すなわち御言葉を着る者でありたいです。ですから今日も私の義を打ち砕き、イエス様がかしらとなってくださって、あなたの御言葉を生きる者へと造り変えてください。
愛する主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 たくみ 】
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