■S:今日の聖書の言葉
マタイによる福音書16章21~27節
★その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。
■O:今日のコラム
ペテロのように皆の前で「下がれ。サタン。」などと言われたらと思うと、ペテロのタフさを思わずにはいられません。彼は何を責められたのでしょう?それは人間中心主義、人本主義と言っても良いでしょう。
人間を中心に置くなら、神は私たちを助ける魔法のランプの精のような存在になり、信仰は御利益主義に成り下がりかねません。人が世にあって損害をこうむるように見えるものは悪であり、世にあって益を得るように見えるものが善であるという価値基準をペテロは責められたのではないでしょうか?世を愛する者は神に敵する者です。それではイエス様の十字架は全く理解できなくなってしまいます。
教会の中には、多くの人々が犠牲を払って神に、そして人々に仕えています。私はある方の捧げものを見て「こんなに多額に捧げて大丈夫だろうか?」と思ったことがあります。「やめた方が良いのでは?」という言葉が喉まで出かかっているときに、主は「あなたの権限を超えていますよ」と教えてくださいました。「やめた方が良いのでは?」と聞くのではなく「主が求めておられるんですね?」と確認すべきであると学ばされました。
献金のことばかりでなく、人々は時間、労力、たましいを人生を神の前に捧げています。また賛美、祈り、感謝を捧げています。それは天にある報い、私たちの永遠の相続地である主ご自身を求めてなのです。
世の終わりの聖徒の模範であるエノクの信仰は、神がおられることと神に近づく者に報いてくださることを信じる信仰です。そして神に近づくにはいつでも捧げものが必要なのです。
捧げものという言葉はコルバンですがこれはカーラブ(近づく)から派生した言葉です。神が求める犠牲を払って神を求める者に、神は必ず報いてくださるのです。父の求めに応えて全てを捧げたイエス様がいっさいのものをお持ちになられたのと同じです。主権者は人ではありません。祝福に満ちた唯一の主権者を褒め称えます。
■A:考えてみよう
世の中の基準の損得で生きるのではなく、神を愛し、神の求める犠牲を喜んで払う者となりましょう。必ず主は報いてくださることを信じましょう。
■P:祈り
主よ。あなたこそ最も大きな犠牲を払って私を愛してくださった方です。あなたの十字架のみわざを褒め称えます。私の全てはあなたのいのちによって買い取られましたから、あなたがお求めであるならご自由にお用いください。私のいのちはいつも私の手の平の上にあり、あなたに差し出され続けています。私のする全てのことに報いを与えてくださる主を信頼します。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 まじまこ 】
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