■S:今日の聖書の言葉
創世記27章1節
★イサクは年をとり、視力が衰えてよく見えなくなったとき、長男のエサウを呼び寄せて彼に「息子よ。」と言った。すると彼は、「はい。ここにいます。」と答えた。
■O:今日のコラム
イサクの目は、年を取り、視力が衰えてよく見えなくなっていました。イサクの視力は、単に身体的に視力が衰えたということだけではなく、霊的な視力、内なる人の視力も衰えたと捉えることができます。
「イエス様の血潮を宣言する祈り」において、私たちの内なる人の目に対して、預言的にみことばを宣言していきます。その中に、「私の目をかすませるうろこが落ち、全ての梁は取り除かれて燃やされます。」「私の目は開かれ、はっきり見えるようになり、神の戒めが記章として私の額の上に置かれます。」という宣言があります。このことは、私たちが日々悔い改め、古い自分が打ち砕かれ、神のみことばにある目が日々私たちの内に形造られる必要があることを意味するのだと思います。そうでなければ、私たちの霊的な視力は、肉体的な視力と同様に年を取れば取るほど衰えていってしまうのだと思います。
イサクも年を取り、視力が衰えた時に、エサウを呼び寄せたみことばに書かれたいます。イサクの霊的な視力、つまり霊的に見極める力が衰えた時に、長子の権利をエサウに渡そうとします。創世記25、26章を読むと長子の権利はヤコブに渡されるはずでした。しかし、イサクの視力が衰えていたために、その判断力ができなくなっていることが考えられます。
同じように、聖書の中で、年を取り目が見えなくなった人物がいます。祭司エリです。エリは祭司でありながら、主のことばはまれで、幻も示されず、目はかすんで見えなくなっていたと記されています。そして、彼も子どもたちが主に対して悪いことをしているにもかかわらず、戒めることができなかったと書かれています。
反対に年をとっても視力が衰えなかった聖書の中の人物は、モーセです。
「モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。」(申命記34:7)
と書かれています。このモーセのように自分が年を重ねていく中においても、目がかすまず、主にあって雄々しくありたいものだと思わされました。そのために、祈りとみことばの朗読に励んでいきましょう。私たちの霊的な視力が日々研ぎ澄まされていきますように。私たちは、祈ることによって霊的に目を覚ますことができます!また、みことばの朗読によってみことばが私たちの内側に刻まれ、霊的な判別力がついてくると信じます!
■A:考えてみよう
・「イエス様の血潮を宣言する祈り」によって私たちの目に、預言的な宣言をしていこう。
・祈りとみことばの朗読に励んでいこう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 あいこ 】
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