■S:今日の聖書の言葉
創世記26章17~22節

★イサクはそこを去って、ゲラルの谷間に天幕を張り、そこに住んだ。
イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘った。それらはペリシテ人がアブラハムの死後、ふさいでいたものである。イサクは、父がそれらにつけていた名と同じ名をそれらにつけた。
イサクのしもべたちが谷間を掘っているとき、そこに湧き水の出る井戸を見つけた。
ところが、ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ」と言って、イサクの羊飼いたちと争った。それで、イサクはその井戸の名をエセクと呼んだ。それは彼らがイサクと争ったからである。
しもべたちは、もう一つの井戸を掘った。ところが、それについても彼らが争ったので、その名をシテナと呼んだ。
イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」

■O:今日のコラム
イサクが祝福されているのを見て、ゲラルの羊飼いは妬みを起こしました。信仰者は人に妬みを持たないが、不信仰な者の妬みを引き起こすことがあります。カインがアベルに嫉妬したように、また整えられた異邦人信仰者を見て、イスラエル人が妬みを起こすように。
 
井戸は生活になくてはならないライフラインです。井戸は霊的に見るならば、私たちと尽きることのない湧水の泉である主との生きた関係です。敵はそれを手放させようとします。そのことに嫉妬しているのですから。
 
エセクとは、争いという意味です。またシテナとは敵意という意味です。敵は私たちに戦いを挑んできます。敵とは人ではなく人を操る悪しき霊たちです。だから私たちが人を滅ぼすなら同士討ちをすることになります。
 
悪に悪をもって報いず、へりくだって愛をあらわすこと、善によって打ち勝つことは私たちが自分の十字架を負ってイエス様について行くことです。ひたすらに主の御心を求めて生きることです。イサクは争わずに次の井戸を探しましたが、それは悪に対して怒らず、へりくだって主の御心を求めるような作業です。
 
私たちは圧迫や攻撃があると自分を圧迫し、攻撃する者に神が報復し、この状況を脱することにフォーカスを当てやすいです。それは確かに与えられますが、主はその状況の中にあって私たちに求めている御心というものがあります。
 
この状況で主は私に何を求めておられるのだろう?という事の方が実は優先されるべきです。そのようにしてこそ私たちは自分の十字架を全うする事ができると信じます。そして勝利や圧迫する悪霊たちの完全な敗北は、十字架の先にあるのです。

■A:考えてみよう
困難な状況、圧迫を受ける状況があるでしょうか?人間関係の中に難しい状況があるでしょうか?

「圧迫者を懲らしめ、私をそこから脱出させてください」と祈るのではなく、「この中にあってあなたの御心は何でしょうか?私の願いではなく主の御心の通りになりますように」と祈りましょう。自分の十字架を成し遂げることを求めましょう。いつでも完全な勝利は十字架の先にあります。

■P:祈り
主よ。確かに圧迫があります。できるならばこの圧迫者が取り去られるように願いたいのです。しかし、避けられぬものであるならば、つつしんでお受けいたします。この中にあってあなたの御心は何でしょうか?私の願うようにではなく、主の御心の通りになりますように。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 まじまこ 】

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