■S:今日の聖書の言葉
ルカによる福音書9章23-25節(箴言9章)
★ イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。
■O:今日のコラム
先日Asia For Jesusの大会にメイン講師として来られた、インドネシアで4万人の教会を導くフィリップ・マントーファ師が、メッセージの中で「私たちの最もやっかいな敵は悪魔ではなく、自分自身だ。」と言われていました。
私はフィリップ師に会って驚き、感動しました。世界中で人々の魂を救いへと導き、多くの人が癒され、大いなる働きを行なっている器でありながら、絶えず謙遜で仕える心を持ち、尊敬と友の心を持って付き合って下さり、イエス様の愛と聖霊様による激しい力と油注ぎに満ち溢れていたからです。
なぜそれ程に豊かな油注ぎを得ているのか?というと、それは「聖さ」を追い求める事から来ると言われ、3つの領域においての聖い歩みを紹介されました。
1 性的な罪からの聖め
目や肉体に戦いを挑むあらゆる性的な誘惑から遠ざかるチャレンジがなされました。もちろん生活をしていると街を歩くだけでも様々な誘惑となるものが目に飛び込んで来ることがあります。
また人間の生理的な現象によって強い性的な欲求が起こる事があります。しかし、その時、力を尽くし、熱心な追求を持って聖霊様に満たされ御言葉で心を満たす事にフォーカスを充てるのが勝利の秘訣です。
2 思考の聖め
私たちの思いが批判や否定的な思いで満たされると主の約束の実現を見る事が出来なくなります。私たちの思考が聖められ、絶えず聖霊様の導きを受けやすい思いを持つ必要があります。
3 祈りの生活においての聖め
祈りの歩みに変革が必要です。
時に私達は祈りにおいても自分の願い、自分の必要「自分、自分」となりがちです。フィリップ師は以前に、ある病にかかりました。その時に同じ症状を抱えた教会のメンバーから癒しの祈りの依頼が来ました。
フィリップ師は「主よ。わたしの方こそ必要があるのになぜ彼の為に祈らなければならないのですか?」と祈ると主からの答えは「私はあなたが自分の必要の為ではなく、彼の必要の為に祈る事を願っている。」というものでした。
そこでフィリップ師は断食を持って自分の癒しではなく、メンバーの癒しの為に祈りました。その後に彼から「完全に癒された。」という連絡が入り、それと同時に自分自身の病も癒された事に気づいたのでした。
私達は共に自分を捨て、日々自分の十字架を負って、主イエスについて行く歩みを目指しましょう。それこそが主イエスの聖さと命に満ち溢れて生きる秘訣です。
■A:考えてみよう
今日も私達は自我が砕かれ、聖霊様が強く自分の内で生きてくださる事を願い祈りましょう。そして主にある聖さを追い求めましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 しんご 】
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現在の私は迷える黒羊なのかも知れません。神様を誰より必要とし、求めているのにも関わらず、”Don Moen”の”I will Sing”の歌詞そのものです。
そして、御心も見えないまま、日々のことに追われ、溜息が出るばかりです。
自分の信仰の至らなさ故、全てを十字架に付け、重荷を軽く出来ない自分自身にも疲れています。
確かに「私」との闘いなのでしょう。
ネットでまたメッセージ聞かせて頂きます。楽しみにしています。
感謝します。
God Bless
mmj
[…] 「自分に死ぬ時、主に生きる」 ルカによる福音書9章23-25節(箴言9章) […]