■S:今日の聖書の言葉
★また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」
■O:今日のコラム
主は、新天新地の時代を与えられます。そしてそこで何が起こっているか?というと「主が共に住まわれる。主が共におられる」なのです。主の願いは数多くあるでしょう。しかし最も大きな願いは、私たちと共に住まい、一緒にいることなのです。
創世記の初めの単語は「ベレシート」(初めに)ですがこの単語は「ベイト」(家)と「ローシュ」(かしら)に分けられます。この単語一つに聖書が、キリストがかしらとなった神の家を回復する計画書であることを暗示しているということができます。ヘブル語で書かれた旧約聖書では、最初のひと単語をその書簡のタイトルとするのが常です。
そして聖書は最後の書簡の最後に至るまで、同じテーマが流れています。主の私たちと住う家の回復を願う熱心は、ご自身を焼き尽くすほど熱く燃え上がっているのです。
福音書において、あの優しいイエス様が怒り、大暴れしたのは、「宮きよめ」と言われていますが、それは「主の家を思う熱心がわたしを焼き尽くす」という御言葉の成就だったと記されています。
そしてその御言葉の通りにイエス様は先にある喜びとして、御父とイエス様ご自身と私たちとが共に全き安息の中で住う家を喜び見て、辱めをものともせずに十字架を全うされたのです。ハレルヤ!イエス様の家を思う熱心がイエス様を焼き尽くし、ご自身を全焼のいけにえとさせ、ご自身を生きたきよい供え物とさせ、なだめの供え物とさせ、神の家に回復をもたらしたのです。
イエス様が十字架でその手足を打たれたのは、釘ではありません。それはペグです。ペグは幕屋、テントを張り伸ばすために地に打ち付けられる物です。主はご自身の体を幕屋とし、その幕屋に人々を招き入れるために右に左にご自身の体を張り伸ばし、鉄の杭を強固にされたのです。
イエス様がただ御父と過ごすためであるなら地に降りる必要はありませんでした。しかし私たちをその安息の家に招くためには、どうしても十字架が必要だったのです。
私たちも同じ熱心を持つことができることを信じます。ダビデはこう語っています。
「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」(詩篇27:4)
ヘブル11章でアブラハムたち信仰の先人たちが、見ていたものも主と共に住う都であったとあります。
「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル11:13~16)
■A:考えてみよう
私たちもこの願いをただ一つの願いとして持つことを受け入れましょう。私たちが確かなものに希望と期待を持つならば、それは必ず実現することを信じます。
違うものに希望と期待を抱いているならば、主は私たちを揺さぶって本物を握らせるまでお諦めにならないでしょう。私たちが自分の十字架と呼べるような苦難、迫害をも乗り越えることができるのは、イエス様と同じ願いを先に見て喜ぶことができるときであると信じます。
■P:祈り
ただ一つのことを私は願います。主と共に住まい、全き安息の中で共に過ごすことを。どうぞ日々、その味わいを教えてくださって、主と共に歩む者として私を導いてください。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 まじまこ 】
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アーメン!