■S:今日の聖書の言葉
ヨハネの黙示録12章14節
★しかし、女は大鷲の翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前を逃れて養われるためであった。
■O:今日のコラム
シャバットシャローム!
女には大鷲の翼が二つ与えられました。自分の場所である荒野に飛んでいくためだと言っています。女は教会でありますから、教会の居場所は本来なら荒野であると言っているのです。
荒野とは、どういう場所なのでしょうか?
・蛇の前から逃れる場所
・養われる場所
なぜ蛇から逃れる必要があるのでしょうか。
「ところが、蛇はその口から水を川のように女のうしろへ吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。」(黙示録12:15)
蛇が女に向けてどのように攻撃をするのかがよくわかる箇所です。また、教会が荒野にいないならばどのように打ちのめされてしまうかということも理解できます。蛇は口から水を出すのです。
水とは良い意味でいえば聖霊様として表されていますが、蛇の口から出るのは生かす水ではなく殺す水です。この世の水とは、飲めばまた渇きをもたらす完全なものではありません。教会がこの地の水によって生きるならば、押し流されることがわかります。教会が教会でなくなるのです。
蛇は告発者でありますから、たとえこの世の楽しみを楽しむという形でなくても、陰口、そしる者、兄弟を憎む者なども蛇の口から出る水と同じであると言えるでしょう。私たちの中にもこのような性質がまだあるのではないでしょうか?
ここでどこに向かうかが大切です。女は荒野に向かうとあります。ここでの荒野とはエレモスと書かれていました。孤独な、寂しい、単独のという意味があります。
「エレモス」という言葉は他にどこの箇所で使われているでしょうか?「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。」(マタイ4:1)
イエス様も荒野に行き悪魔の試みを受けましたが、主の生きた御言葉により勝利をおさめられました。以前私は荒野に行くには下るイメージがあったのですが、聖書には「上る」と書いてあることに驚きました。主の御言葉は上にあることがわかります。主の御言葉を受けるためには、荒野に上っていかなければならないのです。
大鷲の翼が与えられた教会は荒野に上っていきます。そして、養われるためだとも教えています。なぜでしょうか?生きた言葉があるからです。蛇の口からでない神の口からでる命の言葉によって教会は生きるものとなります。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(第二テモテ3:16)
「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。」(イザヤ2:2,3)
■A:考えてみよう
荒野に行くことができるのは大鷲の翼によって上ることができます。主を避けどころとする者がその翼によって、本来いるべき場所に行くことができます。
主を私の避けどころとしているでしょうか?荒野には何があるのでしょうか?
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 あはごん 】
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