■S:今日の聖書の言葉
ヨハネの黙示録3章1~6節

★また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。「神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。『わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。
目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。
だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。
しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。
勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。』」

■O:今日のコラム
私たち人間はいつの間にか手段と目的が入れ替わってしまってしまうことがあります。例えば、次のようなものが挙げられるでしょう。

・毎日新しい主との関係を求めるはずが、いつの間にか主との関係を抜きにした形式的な礼拝になってしまう。
・イエス様を何よりも愛していたはずなのに、いつの間にかミニストリー自体や組織を愛してしまう。

このような状態を続けるなら、はじめにあった喜びがどこかにいってしまい、霊的に枯渇してしまうでしょう。今日のみことばにあるサルデスの教会が、まさにこのような姿だったかもしれません。

サルデスはアジアのリディアの首都で、とても栄えた都市でした。その歴史は長く、交通の要所として重要な箇所で、古くから織物、染料、宝石などのビジネスで栄えた町でした。また、宗教結社も多数存在し、アルテミス神殿もありました。そのような町に対して、主は言われます。

「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」(黙示録3:1b)

生きているとされているが、実は死んでいる。まるでゾンビのような表現です。形だけの信仰、形式を重視してイエス様との関係のない信仰はこのような状態です。

イエス様も実を実らせないいちじくを呪われました。(マタイ21:19)
また、人の目だけを気にする律法学者を叱責されます。(マタイ23:13)
詩篇1篇にも見られますが、見た目は同じでも、中に実があるかないかで大きく別れてしまいます。主は私たちの外見以上に私たちの内なる人をご覧になります。

主はこのようなサルデスに向けて叱責されます。これは、サルデスの人に対して腹を立てておられるわけではありません。これは主の愛です。その叱責で目を覚まし、もう一度神の愛に立ち返ってほしいという主の切なる願いを込めた叱責です。

どのようにすれば、主の願いどおりになれるのでしょうか。

(1)目を覚ます:イエス様も五人のかしこい娘と愚かな娘のたとえ、多くの場面で「目を覚ましなさい」と言われます。マタイ26:14には「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」とあります。目を覚ますことと祈りは密接に関わっています。

しかも、ここでは「目を覚まし続ける」という意味で書かれています。言い換えるなら、すべてをかけて主を愛するという決断をし続ける、第一の戒めとも言うことができます。

(2)死にかけている残りの者たちを力づける:目を覚ました次は隣人を力づける事が必要です。第二の戒めです。つまり、第一の戒めと第二の戒めを守ることで、主の願い通りの生き方ができることがわかります。

さらに3節から、具体的な指針を黙示録は私たちに示します。

(1)どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して:みことばを心に刻むことが大切です。心に刻んでいなければ思い起こすことはできません。まずインプットをしなければアウトプットもできません。指針もわかりません。みことばにもこのように書かれています。

「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)

みことばの多読を続けていきましょう。

(2)それを守りとおし:聞くだけでは不十分です。聞いて行うことまでがセットです。聞いても行わない者は不従順な者です。

「彼らは、神を知っていると口では言いますが、行いでは否定しています。実に忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。」(テトス1:6)

みことばを聞いたなら、それを守りとおすことができるよう、切に祈る必要があります。

(3)かつ悔い改めなさい:悔い改めるとは、自分勝手な生き方から神様の願われる生き方へと向きを変え、歩むことです。そのためには上の(1)(2)を経なければなりません。

指針がわからないのに、どうして進むことができるでしょうか。指針がわかっても、実際に歩き始めなければ、どうして目的地にたどり着くことができましょうか。どんな小さなことであっても、みことばの基準からずれることがあるなら、その都度、軌道修正をしていく必要があります。

そのような歩みをするなら、地上では惨めで愚かに見えるかもしれません。しかし、そのような者には必ず報いがあります。神は報いてくださる方であることを信じなければなりません。

ここでの報いは一体何でしょうか。それは、「白い衣を着せられる」ということです。

サルデスには、衣を汚さない人が幾人かいました。山上の垂訓の「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」というみことばを思い起こします。このわずかな者は、衣を汚さなかったのです。衣とは何でしょうか。

「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」(ガラテヤ3:27)

つまり、イエス様とその御名を汚さず、世の中に妥協することなく、聖さを愛し続けた者です。また、白い衣とは、このように書かれています。

「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」(黙示録19:8)

輝く白い衣は、聖徒たちの正しい行いです。正しい行いとは、みことばの通りに生きる生き方です。また、祭司の服でもあります。どんな小さな事であっても、私たちが地上でみことばの通りに行ったことは来る日に私たちの着物となります。つまり、今の生き方が永遠のいのちにつながっているのです。

そして、報いは衣を着るだけではありません。それに続く事が最も重要です。それは「わたしとともに歩む」ということです。花婿なるイエス様とペアルックで、永遠に歩み続けることができるのです。なんと素晴らしいことでしょうか!衣を汚さなかった人はそれにふさわしい者であると書かれています。

そして、「そのような人の名を決していのちの書から消すことはない」とも書かれています。さらに、花婿なるイエス様はそのような歩みをしたものを「父の御前と御使いたちの前で言い表す」とも書かれています。イエス様が私たちを御父と御使いたちの前で自慢してくださるのです。
「御使いよ。わが父よ。この者を見てください!どんなときでもわたしのことばを守り通した者がここにいます!すごいでしょ!この人こそ、私の花嫁にふさわしいものです。わたしはこの者を誇ります!」と。

■A:考えてみよう
あなたの人生の目的は何でしょうか?
あなたの人生を導くのは何でしょうか?

そのすべてがイエス様でありますように。手段と目的が入れ替わってしまっていないでしょうか?特に忙しいこのシーズンに、私たちはあえて時間をつくり、主の御前に静まる時が必要です。

出エジプト5章前半にあるように、パロ、すなわちサタンは私たちを忙しくさせます。その結果、人は忙しさに忙殺され神を第一とできなくなるという性質を知っているからです。

忙しいときこそ、努めてイエス様との時間を設けましょう。それがサルデスにいた「わずかな者」の生き方です。

■P:祈り
いつも私を愛してくださる天のお父さん、今日のみことばをありがとうございます。私をサルデスにいた「わずかな者」とさせてください。ノアの時代も、ロトの時代も、いつの時代もみことば通りに生きるものはわずかであり、虐げられています。しかし、これが十字架の道であることを感謝します。
私はこの地上で栄誉を受けることは願いません。イエス様が父と御使いたちの前で私のことを言い表してくださることを求めます。
私の目的はこの世の成功ではなく、イエス様、あなたご自身です。御国に行ってからあなたと共に歩み始めるのではなく、今日からあなたと共に歩む喜びを教えて下さい。

花婿なるイエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

【 しゅん 】

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