■S:今日の聖書の言葉
ヨハネの黙示録1章17~18節
★それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。
■O:今日のコラム
アブラハムは、神様に「あなたの子、あなたの愛しているひとり子、イサクを連れてモリヤの地に行きなさい。そして、全焼のいけにえとしてイサクをささげなさい。」と言われました。アブラハムにとってイサクは、目に入れても痛くないほどの年寄り子、自分のいのちよりも大切な存在だろうことは、このストーリーを読むと容易に想像できます。
普通であるならば、大きな決断なので、神様との間にやり取りがあったりするのではないかと思います。しかし、聖書を読み進めていくとアブラハムは、翌朝早く、イサクと出かけたことが記されています。神様のことばにすぐ従ったのです。それほど、アブラハムは神様を恐れ、神様に対する信頼が大きかったことが分かります。ヘブル人の手紙の中では、
「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」(ヘブル11:19)
と書かれています。アブラハムは、神を恐れ、神が人を死者の中からでもよみがえらせることができるという信頼を置いたのです。これは型ですと書かれているようにイエス様も同じような信頼を父なる神様に置いていました。自分を死から救うことのできる方に信頼し、はずかしめをものともせずに十字架につき、死に至るまで従順に従われました。
私たちの信じている神様は、死とハデスの鍵を持っている方です。死を打ち破りよみがえられた方です。
私たちは、本当に恐れるべき方にフォーカスが当たっているでしょうか?この方を恐れ、この方の御心、みことばを行うことにフォーカスを当てていきたいです。他のものは過ぎ去っていくものです。私たちが神様のために自分のいのちを失ったとしても、神様が復活のいのちで満たしてくださいます。
「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:39)
■A:考えてみよう
神様のためにいのちを失うことが喜びであることを心に留めよう。主が復活のいのちで満たして下さると告白しよう!
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 あいこ 】
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