■S:今日の聖書の言葉
ヘブル人への手紙11章6節

★信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

■O:今日のコラム
私たちが好んで聞くメッセージは、愛の受動的な性質についてのものが多いかも知れません。「主は私たちのことをありのままで愛して下さっている。」、「私たちは神に喜ばれている。」、「神は私たちを価値ある者と見て下さっている。」という内容のものです。もちろんこれは真実であり、私たちが神の子どもとして正しいアイデンティティーを持つために神の絶対的な愛を知り、それを味わって生きることが重要です。

しかし、それと同時に聖書は愛の受け身的な部分だけでなく、愛の能動的で自発的な領域について教えています。そして、これが「神に喜ばれる」歩みなのです。

ヘブル人の手紙11章は「信仰の書」と言うことが出来る程に信仰によって歩んだ聖徒たちが記載されています。その中で上記の6節には「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」と記されています。これは前の節にあるエノクの信仰の歩みから繋がって記されているものです。5節の後半には

「彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」(ヘブル11:5b)

と記されています。詳訳聖書には「神が彼に満足を覚えていた。」と訳されています。そして続く6節に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」とありますがこれも「信仰がなくては、神に満足していただくことは出来ない。」と訳されています。

では、神に満足していただく信仰の歩みとは何でしょうか。先に結論を言いますと「主を熱心に求め、報いを信じる歩み」がその答えです。

6節を細分化するとまず私たちの信仰は神の存在を認める為に必要となります。ここには「神に近づく者は、神がおられることと」と記されています。目に見えない神の存在を信じる為には信仰が必要です。実際の肉の目では見えなくても信仰の目によって主を見上げ、信仰の耳をもって神の声を聞き、信仰の手を伸ばして主と共に手を取り歩むことが可能となります。

しかし、神の存在を認めるだけでは信仰全体の半分までしか進んでいません。もう半分は6節の後半に「神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」と記されています。

この「神を求める者」とは「神を熱心に求める者」という意味があります。つまり、日々の生活の中であらゆる時に主を求め、時間を捧げ、思いと心を捧げ、経済や機会を捧げ、神を熱心に求める者には必ず主は報いて下さるということを「どうしても信じなければならない。」と原文では書かれています。

報いと聞く時、皆様は何を報いとして求めますか。もちろん健康や繁栄、祝福や成功、神を求める者に主は全ての領域で良くして下さいます。しかし、5節のエノクの歩みから続けて見ると、神を熱心に求める者に与えられる最も偉大な報いとは「生きたまま主の元に引き挙げられること」です。

私たちは終末に対する信仰、携挙に対する信仰を明確に持って生きる必要があります。それは神をお喜ばせする信仰であることを今日の箇所から確信したいと願います。

■A:考えてみよう
この世のことで思いと心が暗くなっていないでしょうか。主の報いが与えられる永遠を見て今を生きることが出来る様に、今日の御言葉を何度も朗読して黙想して祈りましょう。

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しんご 】

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