■S:今日の聖書の言葉
ヨハネによる福音書20章25節

★それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。

■O:今日のコラム
この御言葉から受ける私たちの持つ印象は「トマス=疑い深い」ではないでしょうか。ヨハネの福音書20章の疑い深いトマスは有名ですが、他にも2箇所、彼が発言している場面があります。

その発言を見る時に、ただ単に「疑い深いトマス」というイメージが変えられ、彼のキャラクターや性格を知り、今日の御言葉を通して、違う角度から神様が語ってくださったように感じます。

1つ目は、ヨハネ11章に出てくるトマスです。

「そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。『私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。』」(ヨハネ11:16)

ベタニヤに住んでいるラザロが病気になり、死にました。向かおうとするイエス様を、他の弟子たちは「イエス様を殺そうと思ってる人がいるので行くのは危険です!」と引き止めます。しかしトマスは、上記の御言葉の通りに「イエス様が死ぬのなら共に死のうではないか」と言いました。イエス様のためなら死さえも覚悟していたトマスは、どんなにイエス様を愛していたことでしょうか。

2つ目は、ヨハネ14章に出てくるトマスです。

「トマスはイエスに言った。『主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。』」(ヨハネ14:5)

イエス様が十字架にかかる前に「場所を備えに行く。」と言われたイエス様の言葉に対するトマスの質問です。愛する方が話している話の意味を知りたい。理解したい。その願いゆえに、その飢え渇きゆえに、トマスは正直にイエス様に「わかりません。」と言ったのだと思います。

そしてこのトマスの言葉がなければ、後に続く「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6) というイエス様の言葉、大切な真理が明かされなかったかもしれません。

そんなトマスの真っ直ぐさや、ご自身を愛する愛を知っておられた上で、イエス様はトマスに言われました。

「イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』」(ヨハネ20:29)

マタイの福音書においては、イエス様の復活後「イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。」(マタイ28:17)と書かれています。トマスはイエス様に会わずにその復活を疑いましたが、イエス様にお会いした者でさえ、疑った者がいたという事実を覚えたいと思います。見ることさえできれば全ての人がイエス様を信じる、というわけではないということです。

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」(1ペテロ1:8)

イエス様を肉眼で見てはいないけれども、今日も聖霊様を通して、ただ主の愛と恵みにより、イエス様を愛する心、イエス様を信じる信仰が与えられていることに、心から感謝が溢れました。

今日の御言葉の箇所を通して、イエス様を心から愛していたトマスを通して「疑う心」を他の言葉で表現するならば「イエス様(真理)を飢え渇き求める心」なのかなと思わされました。そして、愛からくる飢え渇きは、私たちの生かされているこの終わりの時代に「見分ける力」となることを信じます。

「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」(使徒17:11)

「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」(マタイ7:15)

終わりの時代、羊を被った狼がやってきます。人から聞いたイエス様ではなくて、私自身が復活のイエス様と毎日お会いしていなければ、狼に気づくことができないかもしれません。

イエス様が言われたように、見ずにイエスキリストを信じる者は幸いな者です。私の感情や経験や常識、思い考えを脇において、御言葉を御言葉として愛し、恐れ敬い、そして従うことはとても大切な歩みです。

同時に、主は私たちの心をご存知です。何かわかったふりをするのではなく、何も考えずにただ信じるのでなく、トマスのように時に慎重であること、そしてイエス様の前で正直であることはとても大切です。

「わきまえのない者は何でも言われたことを信じ、」(箴言14:15)

ウェスレアン注解という注解には「うるさく疑う者はまた、それだけ真面目に信じる者でもある。」とトマスの慎重さを評価して、彼のことを「正直な疑い屋」と書いているそうです。もし今日、神様(御言葉)への疑いの心があると感じるなら、それは「疑い」という言葉に覆われて隠されている「イエス様(真理)を飢え渇き求める心」であるかもしれません。

今日一日を通しても、イエス様が言われた幸いな者、見ずに信じる者となることができますように。御言葉を御言葉として愛し、恐れ敬い、主を主とし、聞き従う心を持つことができますように。

そして同時に、トマスのように「正直な心」「イエス様(真理)を飢え渇き求める心」を持つことができますように。この愛から発せられる、真理を探し求める飢え渇きを通して「見分ける力」が、偽りと惑わしがはびこる終わりの時代に生きる聖徒たちに与えられますように。

■A:考えてみよう
下記の御言葉を朗読し、黙想しましょう。御言葉に基づいた信仰が、今日一日、私たちの心と思いを満たしますように。

「主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。」(詩篇145:18)

「銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。」(箴言2:4,5)

「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。」(箴言8:17)

「見よ。その日が来る。-神である主の御告げ-その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。」(アモス8:11)

「いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たちです。」(2テモテ3:7)

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 こばあい 】

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