■S:今日の聖書の言葉
ヨハネによる福音書19章1~3節
★そこで、ピラトはイエスを捕らえて、むち打ちにした。また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と言い、またイエスの顔を平手で打った。
■O:今日のコラム
シャバットシャローム!!
イエス様の血潮の力を宣言し祈ることを実践していますか?なぜ私たちは御言葉を読み、血潮を宣言し、祈るのでしょうか?目的が分からなければ諦めてしまうことでしょう。または目的がずれているなら実の残らない結果になることでしょう。
私たちが御言葉を読むのも、血潮を宣言して祈るのも異言で祈るのも、主と出会うためです。
主と出会わなければ、主の御顔の前に行かなければ、主を礼拝しなければ、全てのことは虚しいものです。たとえどんなに宗教熱心な生き方をしていたとしても、主の御顔の前に行かなければ肉の性質と罪の葛藤の中にずっと留まっていることでしょう。
私は生活の中のあらゆる場面で血潮の力を宣言し祈ることを実践していますが、血潮の宣言をすると、いかに自分の考えが世の中の考えに支配されており、御言葉の基準でないことがわかります。
イエス様がむちでうたれ、いばらの冠をかぶらされ、あざけられ、傷を受けてくださったのは偶然のことだったのでしょうか?イエス様は全てにおいて痛み苦しみ弱さを通ってくださいました。完全な傷の無い子羊なる方が贖いとして捧げられました。
「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53:3)
私たちが至聖所に行き、天のお父様の御顔の前に行くには、贖いと、血が捧げられる必要があります。罪があるままでは至聖所に入ることはできないからです。私たちが赦され聖められる目的は至聖所に入って主と出会うためです。大庭や門にとどまっていてはならないのです。主と出会うなら必ず主の似姿へと変えられていきます。
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これは、まさに御霊なる主の働きによるのです。」(2コリント3:18)
主の約束を感謝します!イエス様の血潮によって罪ゆるされ清められ、天のお父様と出会えることを感謝します。御霊様の働きにより造り変えられていくことを感謝します。
■A:考えてみよう
「イエス様の血潮はサタンの支配から私を贖いました」
誘惑がやって来る時に、この世の思いが来る時に宣言しましょう。主の血潮により頼み、宣言する時に、必ず打ち勝っていくことを体験します。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 あはごん 】
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