■S:今日の聖書の言葉
ヨハネによる福音書9章39節
★そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
■O:今日のコラム
聖書ではたくさんの奇跡が記されていますが、その中でも、盲人の目が開かれるという奇跡は多く出てきます。数多く出てくるため、目が見えるようになったしるし、奇跡の中に神様のどのような心があるのかと神様に祈り求めたことがあります。
聖書で最初に目が開かれたことが書かれた箇所を見てみましょう。
「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:5)
「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」(創世記3:7)
取ってはならないと言われた善悪の木の実を取る時に、アダムとエバの目が開かれました。ぱっと読むならば、目が開かれるということは良いことだ!と思いますが、これは霊的な目ではなくて、肉の目が開かれたということを、以前に学びました。良い目ではなく、悪の目が開かれた所です。これが盲目な者であると神様が語りかけてくださいました。
霊的に盲目となった者は、神様の考えではなく、自分の見える所、自分の価値観という目が開かれているのです。また、盲目とは、目が見えないこと、他のものが目に入らず、正しい判断ができない状態、そのさま。とも調べると書かれていました。
これらがまさに今日の箇所のパリサイ人の姿です。
今日の箇所は盲人の目が開かれるという奇跡が描かれた箇所です。イエス様は、実際に目が開かれるという奇跡をされたあとに、パリサイ人たちに向かい、あなたがたこそ盲目だとおっしゃるのです。彼らは、奇跡の中に主の素晴らしさを見ることができませんでした。イエス様でなく、人にフォーカスする目を持っていました。自分の見える、自分の価値観という目が開かれ、そのことに、とりこにされてしまっている状態です。つまり、主が見えないのです。これが主がおっしゃる盲人の姿です。
私たちは、問題の中で何を見つめていますか?自分自身いつも思わされるのは、人や、状況であるならば、その中で全てを治めておられる主を見ることができなってしまうということです。いつも共におられ、恵みとまことに満ちたお方ではないものに、心と思いがとらわれてしまいます。
また、「わたしが道、真理、いのちである」とイエス様は言われていますが、真理が、戒めや知識としてとどまるのではなく、イエス様であることを悟らなければ、みことばを知っているようで、それらは自分の考えを強めさせてしまいます。無知という暗闇にとらわれ、イエス様に向かっているようでも、いのちには至らないのです。
問題の中に、状況の中に、そしてみことばの中に、イエス様を見ることができる目があること。これこそが目が開かれた者であると信じます!
■A:考えてみよう
「イエスは『来なさい』と言われた。そこで、ペテロは船から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので…」(マタイ14:29,30a)
この箇所からいつも教えられることは、信仰のレースは、頑張って、打ちたたいて、我慢して、、、、というようなものでなくて、イエス様を見続け、イエス様を目指して進んでいくレースであるということです。目を離したら私たちは沈んでしまうのです。しかし、イエス様を見るならば、どのような所でも前に進んでいけるのです。
見える、分かる、理解できることにより頼むこと、自分の考えという肉なる目を持って進んでいくこと、これらを今日主に明け渡し、この肉の目が閉ざされていきますように。そのような道の行き着く所はイエス様ではないからです。
そして、真理なるイエス様を見る目が開かれ、ペテロのように、水(みことば)の上をまっすぐに進み続けることができますように。
すでに肉の目を持っている人に対して、霊的な目が開かれるのは難しいでしょう。多くの場合、主が見えなくなってるので、主が必要です、霊の目が必要です、と、気づくことができません。そして、人にはそのようにアドバイスしても、自分自身はとらわれて気づけないということがあるように思います。
ですから、主よあわれんでくださいと願い求め、自分は見えない者であるという悟りと、目を開いてくださいという願いが与えられますように共に祈ってまいりましょう。
■P:祈り
愛するイエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 ゆうこ 】
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