■S:今日の聖書の言葉
ダニエル書3章18節

★しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。

■O:今日のコラム
バビロンの王ネブカデネザルは金の像を造り、「あなたがたが角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞くときは、ひれ伏して、ネブカデネザル王が立てた金の像を拝め。ひれ伏して拝まない者はだれでも、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。」(ダニエル3:5,6)との命令を出しました。

けれども、ある者たちが「ユダヤ人で王に仕えていたシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、王の造った金の像を拝んでいません。」とユダヤ人たちを訴えたのです。

王は、この三人に言いました。「もし、金の像の前にひれ伏して、この像を拝むなら、それで赦そう。しかし、拝まないなら、お前たちは火の燃える炉の中に投げ込まれよう。」

それに対して、三人は次のように語りました。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。『私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。』」(ダニエル3:16,17)

ここまで読むだけでも、彼らの神様への信頼の強さ、神だけを恐れ敬う彼らの信仰を、充分に見ることが出来ます。けれども、彼らは更に驚くべき信仰を見せます。それが今日の聖句です。

「しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」(ダニエル3:18)

「しかし、もしそうでなくても」 この言葉に込められた、彼らの、神に対する絶対的信頼とへりくだりを見て、私自身も本当に深い悔い改めに導かれた時がありました。

シャツのボタンの一番上をかけ間違えてしまうなら、いくらボタンを留め続けても、どこまで行ってもズレたままになってしまいます。私たちの信じている福音は何からスタートしているでしょうか?もしそれが、ズレてしまっているなら、私たちの信仰は何年続けたとしても、ズレたままである、という厳しい真実を覚えます。今日はそのことを、共に確認したいと願います。

私たちは、万物を造られた主によって造られました。私たちも「主のために」造られた存在です。主が、私たちのためにおられるのではありません。福音の始めは、自分は神によって造られた者、神のために存在する者である、ということです。とてつもなく、当たり前で、シンプルですが、案外、私たちの生き方が、それとは全く正反対のことがあります。

自分の人生の主権が「主」ではなく「自分」である時に、自分の思い通り、願い通りに物事が進まないなら神様に失望し神様につまずきます。「私は神様のために存在する者であって、神様が私のために存在されているのではない」ということが、自分の内に明確にされしっかりと刻まれていないと、神様の願っておられることにフォーカスをおいて生きる代わりに、自分の人生を、目標達成や夢実現のために費やしてしまいます。

「どう祈ったら、祈りが聞かれるか。」「どのように祈ったら、祝福されるか。」 現代はそのように、祈りの中心はあくまでも自分であり、自分の願い通りになることを目的として祈るのが、祈りであるかのように教えられることがあります。

もちろん、主は祈りにこたえ、祝福してくださいます!けれども、自分が人生の主人であるなら、信仰生活のフォーカスは「いかに神様が(目に見えるところにおいて)自分の人生に良くしてくださるか。」になってしまいます。私たちの信仰生活のフォーカスは「いかに自分の人生を通して、主の御心がなされているか。」でなければなりません。

シャデラクたちの「しかし、もしそうでなくても」という言葉に込められているのは、決して「私なんか、価値がないので、神様に見捨てられても文句なんか言えません…」と言ったような、自己卑下ではありません。

「たとえ、主が火の中から私を救い出すことをされなかったとしても、主がどこまでも良いお方であり、真実なお方であり、どこまでも愛してくださる方であることに変わりはありません。
もし、自分の思っている通りに物事が進まず、神様の御心が分からなくなってしまったとしても、私に分かっていることは、主が最善の神であって、私の思いよりも遥かに高く素晴らしいことを成してくださる神であるということです。
主は、私の神です。私の計画を超えて、主のご計画通りになさるのが最善であり、また当然です。主のために造られた私は、主のために生き、主のために死ぬことが幸いなのです。」

「しかし、もしそうでなくても」という言葉には、このような神への信頼と、神の主権のもとにへりくだる彼らの告白が込められていると信じます。

私たちも、彼らのように、主の主権を認め、主のものとして生きる者となることができますように。

「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」(申命記6:4)

「知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。」(詩篇100:3)

■A:考えてみよう
今、自分にとって思いがけない状況に見舞われているだろうか。一見、不快に思える境遇を見て、「神様はなぜ、私の祈りに答えられないのだろうか?!」と怒りや失望を覚えているだろうか。

今一度、ともに「自分の人生の主人が誰なのか、自分の人生は誰のためのものなのか、自分の人生を誰が所有しているのか」をはっきりさせていきましょう。

イエス様は十字架を前にして、このように告白をされました。

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)

私たちはともに、神に遣わされている者、神に召された者として、この様に御父に信頼し、ゆだね、御父の前にへりくだる者へと造り変えられていくことを願い求めます。

■P:祈り
愛する恵み深い天の父よ、今日も私の人生の主権は、ただただあなたにあることを認め、告白いたします。偉大な御名をあがめ、賛美いたします。
私の今日の一日を、私の人生を、あなたの御心のためにお使いください。あなたが、いかに素晴らしいお方か、偉大なお方か、私の人生を通してあらわしてくださいますよう、願い求めます。
思いがけない状況に見舞われても、苦しい状況でも、あなたの真実さに信頼し、その大能の御手に私の人生を明け渡し続けます。弱い私が、あなたの愛を見失わないように、私の目を開き続けてください。
たとえ、自分の思っている通りに行かずとも、主が私の神であることを、告白し続けます。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 みちる 】

カテゴリー: マナメール

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