■S:今日の聖書の言葉
哀歌3章22節
★私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。
■O:今日のコラム
今日の箇所は、多くの方が読んだことのある箇所ではないでしょうか。永遠の滅びから救い出してくださったイエス様の十字架を思うとき、その恵みとあわれみに感謝が溢れ、神様の愛をほめたたえるばかりです。
なぜ、神様はご自身の命をかけてまでも私を救い出してくださったのでしょうか。私を救い、神様の得になること、神様にとって益になることがあるのでしょうか。
「人は神の役に立つことができようか。賢い人さえ、ただ自分自身の役に立つだけだ。あなたが正しくても、それが全能者に何の喜びであろうか。あなたの道が潔白であっても、それが何の益になろう。」(ヨブ記22:2,3)
ヨブ記において、ヨブの友人は上記のように言っています。
「私の賢さは、神の役に立つだろうか。」
「私の正しさは、神にとって何の喜びだろうか。」
「私の潔白さは、神の益になるだろうか。」
私がどれほど立派になろうと、主権者なる神様と、造られた被造物である私の立場は変わりませんし、神様に及ぶことは決してありません。すべてにおいて満ち満ちておられ、すべてを持っておられる神様にとって「私の救い」は何のメリットもないように思えるのです。しかし、次の御言葉において驚くべきことが書いてあります。
「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」(イザヤ43:25)
罪の赦し、救いの恵みは、当然それらを必要とする私のためだと思っていました。もちろんそうなのですが、しかし、この御言葉において神様は「神様ご自身のために」私の罪をぬぐい去ると言っておられるのです。
私ではなく、全ての中心は神様であることを覚えたいと思います。「救い」「赦し」そして「癒し」や「きよめ」でさえも、「私のため」ではなく全て「神様のため」なのです。この小さき命のために、偉大な御子の命をかけて、私を愛し救い出してくださった主の愛に、今日も心から感謝を捧げたいと願います。
また同時に、すべての中心であり、統治者であり、主権者であられるお方の主権を認め、私がいつも中心にいたことを悔い改め、今日この朝も、心の王座にイエス様をお迎えしたいと思います。
今日の哀歌の御言葉には、神様の恵みとあわれみは尽きることがない、と書いてあります。私たちを永遠の滅びから救い出してくださった神様の恵みは、私たちの命の日の限り、私たちを追いかけ、一日一日主の御心を歩むことができるように助け、できないことをする力を与えてくださる、恵みの上にさらに増し加えて注ぎ続けてくださる恵みであることを感謝します。
「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」(ヨハネ1:16)
今日一日も、朝ごとに新しく注がれる主の恵みを受けて、主を主とし、このお方と共に歩むことができますように。
■A:考えてみよう
詩篇51篇を朗読し、自分が主人になっていること、自己中心の罪を悔い改め(導かれる悔い改めるべきことがあるなら悔い改め)、神様の御前に告白し、十字架の恵みとあわれみを覚えて感謝する時間をもちましょう。
「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。」(詩篇51:1)
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 こばあい 】
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