■S:今日の聖書の言葉
ヤコブの手紙2章13節

★あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。

■O:今日のコラム
私は日々の祈りの中で「イエス様と一つになり、イエス様の聖さを持ち、主の御心の中を今日も歩むことが出来ますように。」という願いを、心から求めて祈っています。

聖くなることは主の願いです。しかし、人の基準の聖さと神の基準の聖さには大きな違いがあります。イエス様がこの地を歩まれた当時パリサイ人や律法学者は人々から義人で聖なる人々だと思われ、自分たち自身もそう認識して生きていました。しかしその聖さは神の基準に達するものではなく、また彼らの持つ聖さは、多くの人々を自分たちから遠ざけ、人々に霊的な窮屈さとさばきの思いをもたらすものでした。

しかし、イエス様の持つ聖さはパリサイ人のものとは違っていました。多くの罪人を引き付け、イエス様の聖さに触れた人々は罪の道から立ち返り、人生が癒され回復し、真の聖さの道を歩むようになったのです。あわれみとさばき、どちらが勝利するかと言うとそれはあわれみです。イエス様は山上の垂訓の中でこう教えておられます。

「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。」(マタイ5:7)

マタイの福音書は、第一義的にはユダヤ人に向けて書かれたものなのでギリシャ後に訳される前はヘブル語で書かれたものだったと言われています。そしてイエス様のメッセージもヘブル語で語られました。(その当時アラム語を使っていたと言われて来ましたが、近年の研究で主イエスはヘブル語を用いていたということが有力になっています。なぜなら主イエスご自身もヘブル語で記された聖書を用いておられたからです。)

ヘブル語でこの「あわれみ」という言葉は「ラーハム」です。それは「あわれみや同情」だけでなく「胎や子宮」を意味する言葉です。つまり、あわれみとは母が胎の中で子を抱いて大切に守るように、人々の魂を自分の内に抱き、その人々に主の恵みと御心がなされるようにとりなし祈ることです。

愛はすべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます(1コリント13:7 参照)。主は私たちの弱さや足りなさ、不完全さや未熟さを持つ現状を超えて、私たちの内にご自身の偉大な計画が成されることを信じ、期待し、忍耐を持って私たちを見て下さっています。この主のあわれみの目を自分自身にも、また人々にも持つことが出来ますように。

時には、人から言われた自分に対する評価により自分自身を卑下し、また時には人から聞いたうわさ話しによって人を罪に定めてしまうことがあります。しかしそんな時、立ち止まって「主よ。あなたが見ておられる様に、私も物事を見ることが出来ますように。すぐに判断をし、さばきを下す代わりに、この状況において、あわれみの心を持ち、とりなす者と私をして下さい。」と求めましょう。

あわれみはさばきに向かって勝ち誇り、あわれみ深い者は自分もあわれみを受けます。それと同時にヤコブが警告している「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。」という言葉も心に覚え、自己中心とさばきに満ちた心が、あわれみの心へと造り変えられるように聖霊様に日々依り頼み、主に求めて祈りましょう。

■A:考えてみよう
あわれみの心とあわれみの目、あわれみの言葉とあわれみの行動を今日一日の歩みの中においても持つことが出来るように、主に求めて祈る時を持ちましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しんご 】

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